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昨年仕事で鹿児島を訪れた折、初めて特攻隊基地で有名な知覧に寄った。
太平洋戦争末期、戦局打開の為、片道燃料のみの、あの決死の体当たり攻撃が敢行されてゆくわけである。
恒久平和の願いを込めて建てられた“平和会館”には零戦の残骸や若き隊員達が出撃した月日の順に、家族・知人に残した遺書・手紙・辞世・絶筆等が展示してあり、改めて惨劇を実感させられた。
千人以上にも上るそれらを読んでゆくうち、私はある事に気づき震えを覚えた。
それは書かれている内容の殆どが、自分の事はさておき、他人への気遣いばかりなのである。
育ててくれた両親への謝意。親孝行が出来なかった事や支え守ってやる事の出来ない無念さ。幼い弟や妹には早く一人前なれとの激励。最後の言葉は、掛けてもらった愛情や恩義に報いる事が出来なかった事への深謝で多くが結ばれている。
心配させまいという配慮からか、写真は皆笑顔で、文面も気丈にして気高い。明日死ぬと覚悟した者が、自分で貯めたお金を実家の改装費にぜひとも充ててほしいなどと懇願するさまは、涙なしでは読むことが出来ない。
六十年が経ち、自分のしたい事は基本的に何でも出来る時代になった。個人の自由意志は尊重され、一人一人の価値や個性を開花させる事が評価、賞賛される。ただ、それを盲目的に支持してしまうと、自分のしたい事だけや、自分のためだけに生きる事しか、しなくなってしまう。この風潮に我々社会も今まで意外と寛容で、黙視してきたのかもしれない。
そんな中、どことなく古めかしく感じる「恩に報いる」という言葉が、奇しくも世界一になったトリノの荒川選手やWBCのイチロー選手によって復権した。両者のこの一戦に懸ける意義や極限にまで挑んだ真意は、“自分の為に一肌も二肌も脱いでくれた人への感謝の想いを出し尽くす。”ことのようだ。二人は世界一という偉業を成し遂げ、多くの人々を幸せにそして感動させた。
感謝の心は、世のため人のためという、自己の利益を超えた使命感を育み、その人に偉大な意味と大きな力を与える。
誰かの為に、という想いは自己を確立させた人が目指す次の道であるのかもしれない。
ぐんま経済新聞 「東毛エッセイ」 平成18年4月20日より転載