桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第16回 家康の遺骨が通った裏街道

そして、鹿沼での4日間が残った。
川越では徳川家康を神にする大法要を営んだのだから4日間という日数は必要だっただろう。だが、鹿沼にはそんな記録はない。目的地である日光は目と鼻の先だ。たった1日の行程でたどり着けるところまで来て、総勢1000人を超える一行はいったい何をしていたのか?

そんな疑問を抱えたある日のことである。悦子さんは何の気なしにテレビを見ていた。すると深谷市にある天台宗の寺院・瑠璃光寺の住職が登場し、

「当寺には家康公の遺骨をもった天海僧正がこの寺に立ち寄ったという言い伝えがあります」

と話しているではないか。森村さんと一緒に桐生の歴史を探ってきた悦子さんは思わず森村さんを呼んだ。

「お父さん、大変だよ……」

瑠璃光寺のホームページには深谷市の有形文化財に指定されている仁王門が掲載され、こんな解説がある。

「寺伝や言い伝えによると、天海僧正が徳川家康公の遺骨を日光に奉遷する際、表向きは川越喜多院より忍・館林方面に行列を仕立て、実は川越より古鎌倉街道を深谷に下り、当山に立ち寄り、家康公の遺骨を狙う賊をやり過ごしてから世良田の長楽寺に向かったという理由により幕府より御朱印を賜り、この仁王門にも葵の紋が付けられています」

    瑠璃光寺の葵の紋

森村さんはテレビでその言い伝えにめぐりあったのである。これもセレンディピティだろう。

この言い伝えを考えてみた。川越から忍(おし)に向かうには東に方向を取る。深谷は川越の西方だ。とすれば、川越で天海僧正は本隊と別れて別行動をとったことになる。天海僧正は家康の亡骸から一時も離れなかったといわれる。とすれば、どういうことになるか。
世良田の長楽寺は天台宗の寺院である。関東に入った徳川家康が祖先の寺として重視し、天海を住職に任じた。3代将軍家光は日光の東照宮を今に残る豪壮な社殿にした際、それまであった古い日光東照宮の社殿をこの地に移設した。それが世良田東照宮である。瑠璃光寺に残る言い伝えを信じれば、家康の遺骨は川越から深谷へ、そして家康と縁が深い世良田(太田市)へと歩を進めたことになる。

森村さんの頭の中に蓄えられていた断片的な知識が音をたてて結び付き始めた。世良田から天海僧正が向かったのは桐生に違いない。栄昌寺である。「第8回 徳川家康に挑む」で書いたように、栄昌寺には天海僧正が徳川家康の亡骸をもって止宿したという言い伝えが残っていたではないか。

15.裏街道_NEW
(森村さんが作った、家康の亡骸が辿ったと思われる道の地図)

天海僧正が栄昌寺を出て向かったのは桐生市の隣、みどり市大間々町上神梅の覚成寺に違いない。「第9回 セレンディピティ」で「天海僧正の腰掛け岩」の伝説を紹介した。あの覚成寺にも家康の遺骨をもった天海僧正の話が残っているからである。

森村さんは妻・悦子さんと一緒に覚成寺に行ってみた。こんな看板があった。

北辰妙見大菩薩の由来
(徳川家康公の御守本尊北辰妙見大菩薩)

 当寺安置の日本唯一の徳川家康公御守本尊北辰妙見大菩薩とは、今より三百五十年程前、家康公臨終の砌(みぎり)、側近である最高顧問の天海大僧正・本多正純・春日の局を招き、余亡き後は三代将軍は孫の竹千代を家光と定めること。そして吾が遺骨は久能山に葬(ほうむ)り、分骨を日光山に東照権現として祭るように遺言されたのであります。
そこで天海大僧正思うに、大坂冬の陣および夏の陣の戦後間もないこの時、豊臣方の残党諸国に潜伏し、機会あらば、徳川の天下を覆(くつがえ)さんと欲するおそれあることを察知するとともに、身の危険を考え、乞食僧に身を窶(やつ)して日光本街道を避け、裏街道(江戸・川越・妻沼を経て当寺門前の道)を進み来られ、やがて、当寺門前にさしかかり、近くにあった石を座所として一時の休息をとられました。それが寺宝の「天海大僧正御座石」ですそして、日も暮れかかった為、一夜の泊まりを当寺に願い出たのであります。
時に当寺住職思うに、人格・風格・風来、唯の乞食僧にあらずと識(し)り、山海の珍味をもって接待申し上げし処、天海大僧正いたく感激せられ身の素性を打明けられ,遺骨と共に奉持(ほうじ)せる家康公御守本尊を寺宝にと下賜(かし)されました。
これが当寺に安置されている「日本唯一の北辰妙見大菩薩」の由来であります。このような由来をもつ北辰妙見大菩薩とは、北斗七星を御身体として祭り暗蕗行く旅人の星明りとなる菩薩様です。

首をひねりたくなる記述もある。家康が東照大権現になったのはその死後である。「東照権現」として日光山に祀れと遺言するはずはない。桐生の栄昌寺に立ち寄ったという伝承が残っている以上、妻沼(埼玉県熊谷市)を通ればかなり回り道になるが、わざわざそんなルートを通ったのか? 山深い寺である覚成寺が、突然現れた客に「山の珍味」はともかく、「海の珍味」を出すことができただろうか……。

だが、1000人を超す大行列が通らなかったはずの深谷市の瑠璃光寺、桐生市の栄昌寺、そしてみどり市の覚成寺と、3つもの寺に、家康の遺骨をもった天海僧正が立ち寄ったとの言い伝えがあるのは事実である。
そして、瑠璃光寺、栄昌寺にはすべて徳川家の葵の紋の使用を許されている。

「この印籠が目に入らぬか!」

はドラマ水戸黄門の、助さん角さんの決めぜりふである。差し出され印籠には三つ葉葵の紋章が浮き出ている。腹いっぱい悪事を働いてきた者どもが一斉にひれ伏す。それほど権威があった徳川家の紋章を、2つの寺が欲しいままに使うことが許されたはずはない。
覚成寺には葵の紋はなかったが、「徳川家康公御守本尊北辰妙見大菩薩」が安置あされているという。これもみだりに公言していいものではないだろう。

3つの寺の伝承が全てでっち上げということがあり得るだろうか?。

天海僧正が家康の遺骨を日光山に運んだという「裏街道」は実在したのではないか? 川越から深谷・瑠璃光寺に向かったという天海僧正は、ほぼ「不死の道」に沿って歩を進めているではないか!

写真:深谷・瑠璃光寺の石板

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第15回 家康はどこで神になったのか

森村さんの研究が次に向かったのは、家康の遺体の遷座である。
徳川家康は元和2年(1616年)4月17日、駿府城で身罷った。当時の数え年では75歳の生涯、満年齢で数えると、73歳4ヵ月の生涯だった。亡骸は遺言に従い、その日のうちに久能山久能寺に葬られ、その1年後の元和3年4月、亡骸が日光に遷された。

「そうであれば、不死の道とは徳川家康が神となって永遠の命を手に入れるために通らなければならない道程だったのではないか」

と考えついたのである。不死の道は一直線に描かれていた。もちろん、実際に家康の亡骸が久能山から日光まで完全に一直線に進むことはできないことだ。だが、できるだけ不死の道に沿って進もうとしたのではないか?

森村さんは行程表をつくってみた。

3月15日 久能山出発
3月15日 善徳寺(富士市今泉) 1泊 36.1㎞
3月16,17日 三島(三島市) 2泊 21.1㎞
3月18,19日 小田原(小田原市) 2泊 40.0㎞
3月20日 中原(平塚市) 1泊 21.3㎞
3月21,22日 府中(東京都府中市) 2泊 46.3㎞
3月23,24,25,26日 仙波(川越市) 4泊 30.6㎞
3月27日 忍(埼玉県行田市) 1泊 27.4㎞
3月28日 佐野(栃木県佐野市) 1泊 23.5㎞
3月29日、4月1,2,3日 鹿沼 4泊 40.7㎞
4月4日 日光到着 29.0㎞

※旧暦3月は小の月で、29日しかない。

「日光市史」によると、家康の御霊を乗せた神輿には、鎧兜に身を包んだ騎馬武者や槍を抱えた兵らに加え、僧侶、重臣、事務を執る役人ら、それに食事など身のまわりの世話をする従者も付き従う大行列だったという。いま日光東照宮の春秋の例大祭で催行される「百物揃(ひゃくものぞろい)千人武者行列」が当時の様子をいまに伝えているといわれる。

この行程表を見ながら、森村さんは仙波(川越)と鹿沼に目を惹かれた。ほかは1泊か、せいぜい2泊なのに、この2つの宿泊地では4泊もしている。亡骸を運ぶ旅である。同じ場所にどうしてそんなに長く滞在したのだろう?

ほかの史料にあたっていて、不思議なことに気が付いた。この遷座の旅には、都の朝廷から権大納言・烏丸光広卿が派遣され、後水尾天皇の綸旨(綸旨=天皇の命令文書)をもって加わっていた。家康が神になることを許す文書である。この綸旨がなければ、家康は東照大権現にはなれない。
ところが、川越までは確かに同行した烏丸光広卿は、一行が川越を発つと隊列から離れ、京に向かって旅立っているのである。なぜ日光まで同行しないのだろう? 不思議な行動だ。

そして、川越には喜多院がある。天海僧正は慶長4年(1599年)、この喜多院の第27代住職になっていた。慶長16年(1611年)に川越を訪れた家康は天海と親しく言葉を交わし、よほど心を揺さぶられたのだろう、寺領として4万8000坪と500石を与えたと伝わっている。家康の遷座が実行された元和3年にも、天海僧正はもちろん喜多院の住職だった。
加えて、一行が川越に4日間とどまっていた間に大きな法要が営まれたといわれている。

「この2つ事実を重ね合わせると、大規模な法要というのは、徳川家康を東照大権現、つまり仏から神に変化させる儀式だったとしか考えられません。なぜなら、天皇の使者である烏丸光広卿には、家康が神になったことを確認する責任があったはずです。川越の喜多院で家康が神となったことを見届けて役目を終えたので帰京したとしか考えられないではないですか

これまで、徳川家康がいつ、どこで神になったかに触れた研究はあっただろうか? 森村さんが研究書に目を通した限り、そんな記述はなかった。

「家康は元和3年3月23,24,25,26日、川越の喜多院で東照大権現という神になったのに違いない」

森村さんは歴史に新しい1ページを加えたのかも知れない。

写真:不死の道、謎の斜めの線、家康の亡骸を改葬する旅……。森村さんは数多くの地図を自作した。

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第14回 山王一実神道の2

山王一実神道は難しかった。
まず、教義がはっきりしない。研究書がほとんどない。いったい、どんな宗教なのか?

徳川家康は山王一実神道の教えで日光東照宮に祀られた。であれば、日光東照宮になら山王一実神道の研究成果があるかも知れない。
森村さんは日光東照宮に出かけた。東照宮宝物館の学芸員に会って山王一実神道についてあれこれ質問した。だがはかばかしい答えは出て来ない。要を得ないまま帰宅するほかなかった。
その学芸員から突然、封書が送られてきたのはしばらくしてからである。何事だろうと封を切ると、1959年に日光東照宮が発行した雑誌「大日光 第12号」の一部分のコピーが入っていた。池上宗義さんという方が書かれた「山王一実神道私攷」という論文だった。

読んで

「なるほど。これじゃあ分からないはずだ」

と思った。山王一実神道は

 「江戸期は勿論、それ以後に於いても当宮の神秘について集成し、且之を公開するを厳に禁ぜられてゐた」

と書いてあったからだ。山王一実神道は秘教なのである。教義を編集することも公開することも禁じられている。それでは調べようがない。研究書がほとんどないことも当たり前なのである。山王一実神道は難物だった。

それに、森村さんが理解するところ、山王一実神道とは徳川家康を神にすることを目的にした宗教である。家康を東照大権現にしたことで役目を終えたともいえる。あとは東照宮で秘儀として守っていればよく、広く布教することを試みた痕跡はない。
調べても調べても、なんとも手の付けようがない難物だった。

慶応義塾大学法学部教授、片山杜秀さんが書いた「歴史を預言する」(新潮新書)を手にしたのはつい最近である。 その1項に「増上寺幻想—首相・将軍・大権現」があった。読み始めた森村さんの目が輝いた。森村さんが目を惹かれたところを引き写してみよう。

「新しい幕府は安泰か。いや、家康があの世に旅立ち、昔の思い出として墓所に祀られるだけになっては、威光も薄れざるを得まい。
どうするか。死してもこの世に行き続けている感じがほしい。家康のブレーンであった天台宗の僧侶、天海がみごとに工夫した。死した家康は東照大権現とされた。権現とは神と仏の一体化したものだろうが、権と現の2文字で構成されているのは伊達ではない。この世にいつも居て、日々現れて,強い権勢を示すから権現なのだ。しかも、天海によれば、東照大権現は権現の中でも山王権現と同体という。山王権現とは比叡山から生まれた神仏混淆思想のひとつの理想的形象だ。聖なるあの世と俗なるこの世は神仏を兼ねるひとりの権現によって統べられていて、この世を統べるとは万民に幸福をもたらして天下を泰平にすることだと考える。家康は、江戸に幕府を開き、長い戦乱の世を終わらせたことによって、衆生に地益をもたらし、聖俗を貫く絶対権威かつ権力としての一仏一神、すなわち山王大権現こと東照大権現と化した。そのように天海は説く。
そんな東照大権現はどこに居る? 静岡の久能山にもだが,やはり日光だ。日光は江戸の真北。北極星の輝く方向。道教では北極星を天皇大帝と呼ぶ。日本の天皇の語源はそこにあるとも言われる。さらに付け加えれば、天海によると、東照大権現は天照大神よりも格が上とされる。
家康と天海はこのようにして、武家の棟梁たちの直面してきた難題の解決をはかったのだろう。天下を泰平にした実力者がこの世でもあの世でも一番偉い。将軍は天皇の上に、大権現は天照大神の上にあると考えてもよい。家康は死してこそ、徳川の権威と権力を完成させたのか。日光の天と地で輝くことによって。天海の名プロデュースである」

山王一実神道はどこにも登場しない。しかし、その考え方は何となく分かる。
森村さんは

「我が意を得たり!」

と思った。

写真:送られてきた「大日光 第12号」のコピー

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第13回 山王一実神道の1

森村さんが自宅に「桐生山王一実研究所」の看板をかけたのは2014年1月のことだった。不死の道と桐生新町の謎の斜めの線。その解明に行き詰まった森村さんは、であれば、徳川家康の人生観、世界観までを知らねば、と考えた。そこに謎を解く鍵があるのではないか。取り掛かったのは山王一実神道の解明である。

山王一実神道は天台宗を基礎として生まれた神道の一派で、晩年の家康が帰依したといわれる。極論すれば家康を神にするための宗教ともいえる。
徳川家康が死後、神になることを遺言で残したことは「第11回 世良田東照宮」で書いた。「八州之鎮守」になろうというのである。私は死んだ後も、八州=日本の、鎮守=守り神、になる。
では、何という神になるのか? 長く家康の側近だった金地院崇伝、家康の亡骸を久能山久能寺に祀った神龍院梵舜は「大明神」を押した。梵舜は吉田神道につらなり、吉田神道は神格化のプロ集団である。太閤秀吉は死して吉田神道の手で「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」になった。その前例にならおうというのである。

これに真っ向から反論したのが天海僧正だった。家康公はなぜ吉田神道で「大明神」にならねばならないのか?

最後の決め手は、この一言だったと伝わる。

「豊臣秀吉公が大明神になられた豊臣家は滅亡した。その例にならおうというのか? 家康公は権現の神になるべきである」

2代将軍秀忠は天海僧正の説を採った。こうして家康は山王一実神道によって東照大権現になった。

日本では奈良時代から神仏習合が進んだ。新しく渡来した仏教と、日本固有の神道の一体化を図ったのである。仏が神の姿になって日本に現れるという本地垂迹説が唱えられた。平安末期から鎌倉時代にかけて天台宗を基本として山王神道が生まれた。天台宗の僧である天海僧正がこれに「一実(森村さんは「蓮の実」でり、法華経の教えだと考える。一般的には「唯一の真理、だと解釈されている)」を加え、山王一実神道を提唱した。徳川家康はこの山王一実神道によって神になった。だが、家康が眠る日光東照宮でも長く秘儀とされ、全容ははっきりしない。

山王一実神道の研究を始めた森村さんは寛永寺が編集・出版した「慈顔大師全集」(慈顔大師とは天海僧正のこと)全2巻が発行されていることを知り、国会図書館に問い合わせて研究に必要だと思われる部分をコピーしてもらった。その1つが、上巻81ページから始まる「一実神道秘決」である。

「凡我大法に帰して、山王一実の法を信し、存生の日にもあれ、もしは滅後にもせよ、純一実相の神変に乗して……」

と始まるこの項を、森村さんは現代語訳してみた。

「おしなべて、私は、大乗の仏法を心のよりどころとして、山王一実の法を信仰している。生ある時も、もしくは死後においてでもある。純粋に現象界の真実の姿を極め突き詰め行動すると(一実)、神へと変化する。さらに、その力を重ね合わせ、大明の神呪へと変身・変現し神へと成りたるものは、その身は、必ず如来様のお住みになる常寂光の世界に、仏法を身につけた如来として安住するのである。故に、心身をあらゆる世界に張り巡らし、一実の誓いに全てを任せ、偏りない心を保ち、現世のあらゆる実態に対応して、現実的な富を人々に施せば、あなたの、信仰する姿に、仏は心を動かされ、あなたに、現象界の真実の不思議な大きな利益を授けて下さる。遂には、一実の力により神の世界と自由に行き来する力を自然と身につける事に成功するのである。それ故、それらの実現のために、日本の隅々の神社に舎利塔を布施として供える行いは、正に桓武天皇の尊いご配慮なのである。それ故、たとえ神通変化の力を持つ神々であろうとも、山王一実の法を学び信仰を否定するような輩は、すべて地獄世界に落ち、地獄の神々の手下とされて、地獄の苦しみからは、抜け出せず、遂には悪いことを永遠に繰り返し、過去・現在・未来、即ち三世の神仏の御恵みを独りじめして恨まれ、難事に出会い、災禍を辺りにまき散らし、邪神と成ってしまうのである。これらのことを知った今よりは、王法に立ち返って、天の神、地の神の神秘を崇むる人々は、皆この圓宗即ち山王一実の神道に統一されるべきである」

なるほど、徳川家康はこのような思想に基づいて大権現になったのか。それは何となく分かった。だが、不死の道とはいったい何なのか?
謎は深まるばかりである。

写真:森村さんは自宅に「桐生山王一実神道研究所」の看板を出した。

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第12回 不死の道

森村さんはなんだかワクワクしていた。逸る心をなだめながら自宅に戻ると、桐生信用金庫に貰った関東の大きな地図を引っ張りだした。1mの長い物差しを取り出して久能山と日光の男体山を結ぶ線を引いてみた。久能山—富士山—世良田(太田市)—茶臼山頂上(桐生市)—半月峠(日光市)—男体山(日光市)。不死の道は確かに桐生の上を通る。

「桐生新町に浮かび出た斜めの線は、不死の道の一部だったのではないか?」

不死の道。それは、私は死後「八州之鎮守」、つまり八州を守る神になると遺言した徳川家康の魂が、東照大権現という神になるために通ったとされる道である。桐生はその道の下にあり、お稲荷さんがいまでもその道を守っている! やっぱり桐生は、徳川家康が特別な町として町立てを命じたのだ!

だが、興奮が冷めて冷静になると,違ったことが気になり始めた。森村さんが桐生新町に見出した斜めの線が不死の道だとすると、たくさんの辻褄(つじつま)が合わないことが出てくるのだ。

前回紹介した徳川家康の遺言は、亡くなる年の4月2日、本多正純、天海僧正、金地院崇伝に伝えたものである。家康が自分の死後について、まず久能山に葬り、1年後に日光に遺体を遷せと命じたのは、この遺言が初めてだというのが定説だ。それを覆す史料は見つかっていない。
一方、桐生新町の町立ては最も早い説では天正11年(1583年)、最も遅い説でも慶長10,11年(1605,6年)といわれている。桐生新町にお稲荷さんで斜めの線を描いたのは町立てと同時だったとしか考えられないから、それまでには家康と天海僧正の間で家康死後の計画がまとまっていなければならない。最も遅い慶長10,11年説を採ったとしても、遺言はその約10年後である。家康死後の計画に従って桐生新町の町立てが行われたとは考えにくいのではないか?

いや、遺言とは単なる形式である。家康は早くから自分が死んだ後のことまで考え抜いており、口にしたり文字にしたりはしないまま、死後の計画を実施していたと考えることもできる。関ヶ原の戦に勝利を収めたのが1600年。1603年に征夷大将軍になった家康は、わずか2年後の1605年、将軍位を秀忠に譲って大御所と呼ばれるようになった。この時期からいずれは訪れる自分の死を見つめ、自分の死後も徳川幕府、日本が安泰であり続けるにはどうしたらいいのかを考え始めたのかもしれない。

だが、家康は60代半ばである。大御所になったとはいえ、大阪城には豊臣秀頼がいた。家康はまだ天下を掌中にしていない。徳川家の安泰のためには現世でやるべきことが残っている。そんなに早くから、自分は死んだ後で神となって徳川家と天下の泰平を守るという計画を立て、神になるための準備を密かに桐生新町の町立てに反映させたのか?
家康は自ら漢方薬を調合するなど人一倍健康に気を配ったと伝わる。またこの頃は盛んに鷹狩りを催している。鷹狩りとは軍事演習の一環で、かなり体力を使う。つまり、健康には自信があったはずだ。その家康が、こんなに早く死後の準備を始めただろうか?

考えれば考えるほど泥沼に沈んでいくようだった。

迷った時は体を動かして頭を切り替えるに限る。実証すればいいのだ。森村さんは久能山から日光までの2万5000分の1の地図を手に入れた。これに「不死の道」を書き入れた。物差しを当て、慎重に赤のボールペンで久能山から日光・男体山まで線を引く。富士山を横切り世良田東照宮を経て茶臼山(桐生市)の頂上を越えた赤い線は、桐生天満宮の上を通っているように見えた。
勢いづいた森村さんは、さらに精密な1万分の1の地図で、確実に不死の道に重なった茶臼山の頂上から平井の山(桐生市梅田町)まで線を引いた。ところが、桐生新町に浮かび出た謎の斜めの線は不死の道とは一致せず、「不死の道」から10mほど西にずれていたのだ。だが、ほぼ平行して走っている。

12.平行線_NEW_0001

上が桐生新町に現れた斜めの線。久能山から男体山に引いた不死の道と平行している。

「真っ先に思いついたのは当時の測量技術の問題です。正確な測量ができなかったのではないか、と。しかし、久能山と男体山は一直線に結ばれ、その線上に世良田東照宮、茶臼山の頂上があります。茶臼山の頂上には八王子の碑まであるのです。八王子といえば桐生新町の町立ての責任者だった大久保長安が治めた地です。ここを正確に通っている。だから、技術の問題とは考えにくい。でも、桐生新町の斜めの線は不死の道に平行しています。何らかの意味があるはずです」

その意味とは何なのだろう? 頼れる史料がなく、考えても解明できないのなら、セレンディピティを待つしかない。いつかきっと、その答えは思いもかけなかったところから顔を出してくれるに違いない。
森村さんは楽天家なのである。

写真:茶臼山の頂上にある八王子の碑=森村さん撮影