「117クーペ」 大塚パンチングの3

【一筆書き】
ある刺繍屋さんを通じて、コード刺繍のデータを作って欲しいという注文が大塚パンチングに来たのは2019年暮れだった。コード刺繍とは、テープや紐、束ねた糸などを生地に縫い付ける刺繍をいう。実物大の仕上がり図を渡され、水で溶ける台紙に刺繍し、あとで台紙を溶かしてレースのようにするという説明を受けた。

生地に縫い付けるのならそれほど難しい仕事ではない。しかし、台紙を溶かしてしまうと、残るのはテープや紐と刺繍糸だけである。出来上がった作品がバラバラにならないようにするには、縫い付けるテープや紐は最初から最後までつながった1本のものでなければならない。いわば一筆書きでデザイナーの求める図形を造り出さなければならないのだ。

刺繍のそんなところまで理解しているデザイナーは少ない。この注文でも

「渡された図面を一筆書きでどう描くかを私が考えなければなりません。どうしても元の図案とは違ってくるけどそれはデザイナーに説明して了解をいただくことになります」

いわば、デザイナーが7割仕上げた図案の残り3割を近藤さんが付け足し、完成品にするのである。
一筆書きとは意外に難しいもので、算数の中学受験問題で出題されることがある。参考書によると一筆書きができる条件は

  • すべての頂点が偶数個の辺とつながっている
  • ちょうど2つの頂点だけが奇数個の辺とつながり、ほかの頂点は偶数個の辺とつながっている

のどちらかを満たしていることだ。三角や四角だけの幾何学模様ならまだ取り付きやすいが、デザイナーが思い描くのは曲線、直線が複雑に入り交じり、線同士が何重にも重なりあうところが無数にある図形である。はて、これをどうしたら一筆で描けるだろう? ほとんどの人が頭を抱え込むに違いない。

「一筆書きを完成するのに何日もかかる。それに、私たちパンチング屋の作業料金はミシンの針が生地を縫う針数で決まります。普通の刺繍なら1㎝で100針ほどありますが、コード刺繍だと5針程度。だから、パンチング屋には厄介者なんです」

だが、デザイナーに頼まれた刺繍屋さんは、大塚パンチングならできるとあてにして仕事を持ち込んできた。中学受験は近藤さんに縁がなく、工賃も安いままだが、何とかデザイナーの思いを形にしてやろうと一筆書きに取り組む。

出来上がったコード刺繍はデザイナーの手でジャケットに仕上げられ、パリコレクションで高い評価を受けた。栄光はデザイナーものである。近藤さんは

「お手伝いできて良かった」

と喜ぶだけだ。

そんな近藤さんに、1つだけ不満がある。

「ヨーロッパでは、刺繍のパンチングはデザイナーのもとで仕事をします。デザイナーの意図を直接受けながらパンチングができるのでいいものができます。ところが日本では、デザイナーが注文を出すのは刺繍屋さんで、私は刺繍屋さんから注文を受ける。デザイナーの意図を直接聞けないので、靴の上からかゆいところをかいているようでもどかしい。日本もヨーロッパのようになってくれれば、もっといい刺繍を使ったデザインが生まれると思うのですが」

栄光はデザイナーのものであっていい。だが、もっと優れた刺繍を産み出したい。
日本のファッションも欧州に追い付き追い越さねばならない。そのために日本の業界が戦略を練り、パンチングの位置づけをヨーロッパ式にするのはいつのことだろうか?

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