まだ幕の内。新年の目出度さが残る昭和13年(1938年)1月5日、智司社長は實さん、タケさんを両親とする4人兄妹の次男として桐生市内の産院で産声を上げた。
松井家はもと鮮魚商で、明治末に機屋に転業した。「松井工場」といった。当時は※銘仙機屋で、いち早く力織機を導入して生産を増やさねば注文をさばききれないほど繁栄を極めていた。その豊かな家に、年が改まった目出度さに加えて2人目の男児の誕生である。喜びに湧く松井家が目に浮かぶようだ。
※銘仙:撚りをかけない糸で織った絹布。先染めして織り上げ、表裏のない生地になる。大正から昭和にかけて、女性の普段着、おしゃれ着として普及した。
しかし、喜びが憂いに変わるのに、時間はかからなかった。
喜びに包まれて誕生した新生児は、生まれつき身体が丈夫ではなかった。風邪をひいた。下痢が止まらない。母乳を飲んでくれない……。母の背に負ぶわれての病院通いが日常の虚弱体質だったのだ。
そんなある日、医者がポツリと言った。
「この子は育たないかも知れないですねえ」
この年の日本の乳児死亡率は出生1000人に対し114.4人。10人生まれれば1人強。ちなみに、平成29年の乳児死亡率は1000人に対して1.9人にまで下がっている。わずか80年ほど前の日本は衛生環境、栄養状態、医療水準、どれをとってもいまとは比べものにならないほど劣っていた。何かの理由で虚弱に生まれついた子供たちのほとんどが、1歳の誕生日を待たずに亡くなっていたのである。
医者の一言に両親は仰天した。せっかく授かった可愛い子が、人生の喜びを知ることもなく召されていく?
「何を言うんだ、この藪医者め!」
と怒鳴りつけたかったかもしれない。だが、怒りをぶつけたところで子どもが助かるわけではない。この子のためなら何でもする。何か救う手はないか?
2人は思案を重ねた。
「最高の病院といったら、東京帝国大学の付属病院だろう。一度見て貰おうじゃないか」
そこまでやってダメなら諦めもつくじゃないか、という思いもあったのだろう。そんな思いを胸に納めて2人は動き始めた。
東京都文京区の団子坂に實さんの知り合いがいた。同業者である。そこを頼った。
「という次第で、生まれたばかりの息子を帝大の付属病院に通わせたい。下宿させてもらえないだろうか」
事情を知った知人は快く一間を空けてくれた。生まれたばかりの智司坊やは母のタケさんと2人、そこに下宿をして東大病院通いを始めた。
団子坂から病院まで、約2.5kmの距離である。母は我が子を背負って、毎日のようにこの道を祈るような思いで歩いた。
「東京に下宿していたのがどれほどの期間だったのか、どんな治療を受けたのか、そもそも私はどこが悪かったのか、そういえば聞いた記憶がないですね」
2年後の昭和15年1月7日、妹が生まれた。それから間もなく、智司坊やは桐生市広沢町の母の実家に預けられる。「松井工場」の仕事が忙しくなって母も早朝から深夜まで仕事に追われ、子守まで手が回らなくなったためだが、この頃には、まだ健康体とまではいえないものの、病院通いは必要なく、親元を離れてもいいという程度には丈夫になっていたらしい。
智司社長の生家はいまの松井ニット技研である。桐生市の中心部に位置する。それに比べれば、母の実家は田園風景が広がる郊外だった。周りは畑と田んぼばかり。近所には同年代の子も多く、豊かな自然の中で毎日走り回る日々が始まった。「もうす」と桐生で呼ぶかくれんぼ、そして山登り、キノコ狩り、鳥の捕獲……。
「いつの間にか健康になってたんですね。私がいま生きていられるのは、東大病院のおかげなのか、それとも広沢の山や畑のおかげなのか、どっちなんでしょう?」
無論、元気いっぱいに野山を走り回る智司君はまだ、自分が将来、カラフルなマフラーを生み出すデザイナーになることは知らない。
写真:幼かったころの松井智司社長