その21 YEARLING

少しばかり話が脱線したかも知れない。だが、カンディンスキーとの出会いは智司社長に決定的な影響を与えたのではないかと筆者は思う。だからもう少し脱線を続ける。智司社長の「合唱」である。

桐生には、まだ戦後の混乱期ともいえる昭和23年(1948年)に市民合唱団が生まれている。「YEARLING」という。繊維で栄えた桐生には、いち早く文化を再生するだけの蓄積があったのだろう。

実家に戻って数ヶ月たった頃、高校時代の合唱仲間だった女性から誘われた。

「YEARLINGの公演があるんだけど、一緒に行かない?」

昭和33年、第10回定期演奏会だった。仕事の忙しさで忘れていた合唱への思いが蘇り、誘われるままに出かけた。客席で聴きながら

「自分のいべきる場所は客席ではない。舞台だ」

と痛感した。音楽への思いが行き続けていたのである。その場で入団の手続きをした。

「YEARLING」はユニークな合唱団だった。当初は群馬大学の教授が指導していたが、彼が転勤で退団すると、団員が自主運営をするようになった。指導者がいると、どうしても指導者の色、好みに染まってしまうのが合唱団である。ところが自主運営だから、どんな曲を取り上げるかは仲間内の相談で決まる。戦後に芽生えた民主主義的運営ともいえる。ジャンルを越えて様々な曲を歌った。

一時みんながはまったのが、ロジェー・ワーグナー合唱団である。「16世紀の聖堂の響き」というアルバムが売り出され、あまりに美しい合唱の響きに

「はい、YEARLINGの全員がカルチャー・ショックを受けまして」

自分たちもこんな合唱をしてみたい。だが、今と違って楽譜は簡単には手に入らなかった。耳コピを試みたがなかなかうまく行かない。1曲だけは何とかなったが、他の曲も欲しい。

「思いあまって、東京芸術大学の教授に手紙を書きまして」

全員で東京まで出かけ、合唱の指導を受けてきた。帰りには、喉から手が出るほど欲しかった楽譜もいただいてきた。ガリ版刷りの楽譜だから気楽にもらうことが出来た。

こうして「YEARLING」は、宗教曲にのめり込んでいく。

「YEARLING」の公演はいつも満員札止めの盛況で、1500人の会場に入りきらず、立ち見客が出るのが常だった。
ところが。

「あれはいつ頃ですかねえ。客の入りが悪くなったんですよ」

何とかしようと軽音楽に挑んだ。智司社長と4、5人の仲間が市内のギター教室に通い始めた。ピーター・ポール・アンド・マリー、ブラザーズ・フォーの曲をコピーしようというのである。

智司社長はオーディオにもこり始めた。アンプはこれにして、ターンテーブルは糸ドライブを選び、アーム、カートリッジは別々のメーカーのものを組み合わせる。スピーカーはイギリスのステントリアンを選び、コンデンサータイプのツイーターを加えた。東京・秋葉原に足繁く通ったのはいうまでもない。輸入レコードを買いあさったのもこの頃の話である。いわゆる「音きち」だった。

20歳で始めて2019年に退団するまで約60年。合唱の何が智司社長をそこまで惹きつけたのだろう?

「例えば宗教曲ですが、4つのパートがきちっと合うと、それまでなかった音が聞こえてくるんです。いわゆる倍音が生まれましてね。その倍音の美しさ、倍音を生み出すまでのプロセスの楽しさ。ええ、それが合唱の最大の魅力ですね」

ソプラノ・アルト・テノール・バスの4つのパートがきっちり合うと、単なるハーモニーを越えて倍音が生まれる。

それって、たくさんの色を組み合わせる松井ニット技研のマフラーと同じでは?

「いわれてみればそうですね。でも、合唱もマフラーも、『倍音』はなかなか出てくれませんが」

智司社長が

「本当に私の人生を豊かにしてくれました」

という合唱も、松井智司の美を醸し出す大事な要素なのだ。筆者にはそう思われてならない。

写真:YEARLINGの公演。前から2列目の左から2人目が松井智司社長。

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