桐生は衰退する繊維産業の町である。いま初めて桐生を訪れる人がいても、この町がかつて織物で全盛を誇った町と気がつく人は少ないかも知れない。
それは桐生人が一番痛切に分かっている。だから、織物の町、織都桐生を再興しようという試みは何度も繰り返されている。
昭和62年(1987年)にオープンした桐生地域地場産業振興センターもその試みの一つだった。織物の町桐生に勢いを取り戻す核にしたい、と関係者は意気込んだ。そして、
「この人ならやってくれるのではないか」
と白羽の矢が立ったのが森山亮さん(故人)である。明治時代、桐生の地で染色法、織機の改良に大きな功績を残し、近代の繊維産業史に名を残す森山芳平氏の血筋を引く森山亨さんは当時、大和紡績に勤めて衣料部長、製品部長、マーケティング部長などを歴任していた。職業柄、繊維についての深い知識と見識には定評があった。そして、ビジネスで培った幅広い人脈を持った人でもあった。
そこを見込み、
「桐生に戻ってこい」
と口説いたのは、桐生が生んだ世界的なテキスタイル・デザイナー、故新井淳一氏だった。
口説き落とされて桐生に戻った森山亮さんは桐生地域地場産業振興センター初代専務理事に就任するとすぐに動き始めた。翌昭和63年、産地桐生の新製品を一堂に集めた桐生テキスタイルプロモーションショー(TPS)を始めたのである。
「ええ、私どもも森山さんにお誘いいただいて展示会に出品しました」
と智司社長はいう。それが森山亮さんとの付き合いの始まりだった。
智司社長の記憶では、ショーは散々だった。あちこちからバイヤーが会場を訪れてくれたのだが、桐生の買い継ぎ(産地商社)が
「この人はうちの客だ。あんたたちは話さないでくれ」
と営業を遮った。だから、せっかく出品したのに、ちっとも客がつかない。
「しかし、森山さんからは、そんなものよりずっと大切なことを、数多く教えていただきました」
森山亮さんはTPSを毎年開くだけでなく、デザイナーやマーケティングのプロを桐生に招き、何度も講演会を開いた。おそらく、桐生に閉じこもってややもすると井の中の蛙になりがちな桐生の繊維関係者に
「世の中は広い。もっとたくさんのことを知り、たくさんの工夫をし、たくさんのネットワークを構築しなければ桐生の繊維産業の衰退は止まらない」
といいたかったのだろう。
智司社長には、そんなメッセージが心に響いた。
もっと琴線を揺すぶられたのは、親しくなった森山亮さんから、折に触れてもらったアドバイスである。
「発注元にいわれた通りに作っていてはダメです。自分で企画をし、作り、販売するようにならないといけません」
一言で言えば脱下請けを目指せ、ということなのだろう。下請けを脱して自分のブランドで商売をしなさい。あなたが創り出すものを直接市場に問いなさい。自立しなさい。
子供時代から工場の中が遊び場だった智司社長は、ものづくりが心の底から大好きだ。だからOEMメーカーではあっても、いい意味で発注者を裏切る製品を作り出そうと頑張ってきた。だが、それでもOEMメーカー、下請けであることに変わりはない。
「ええ、私、勘は鈍い方ですから、お話しを承った時は『なるほど、そんな時代が来るのだろうなあ』と感じただけだったのですけどね」
それが、しばらく後に花開くことになる。
写真:桐生地域地場産業振興センター