開口一番の挨拶である。多くの美術館に電話営業をするうちに、これは敏夫専務の定例フレーズになっていく。まず松井ニット技研を知ってもらわなければならない。それにはA近代美術館での実績を挙げるのが一番手っ取り早い。何しろ、松井ニット技研はOEMメーカーである。メーカー名を冠した製品はない。取引先を除けば誰も知るはずがなく、ブランド力は0。だが、A近代美術館は世界に鳴り響くビッグ・ブランドだ。
実は、営業の手段として「A近代美術館」の名前を使うのは、取引を始めるときに美術館と交わした契約に違反する行為である。のちに敏夫専務は、この件でA近代美術館の叱責を受けることになるのだが、この時の敏夫専務の頭には契約書の「け」の字も存在しなかった。英語で書かれた長文の契約書に目を通した記憶もなかった。
「A近代美術館にマフラーを納めることが出来ることに舞い上がって、契約書なんてろくろく見なかったから記憶しているたわけがないんです。それに、あの電話をかけた時の私は、とにかく会社を潰しちゃいけない、。何とか営業を成功させないと、と必死でしたから、契約書の中身を記憶していても突っ走ったかも知れませんけどね」
話を道立近代美術館に戻す。
敏夫専務は言葉を継いだ。
「当社はずっとA近代美術館一本でやってきました。でも、あまりにも売れるものですから、ひょっとしたら日本国内の美術館でも来館されたお客様に買っていただく商品をお探しになっているのではないかと思いつきました。遅ればせかも知れませんが、よろしかったら資料をお送りさせていただきます。ご検討願えませんでしょうか」
営業の世界では、100件当たって12、3件から引き合いがあり、うち3件がまとまれば上首尾だといわれる。営業を続けてきた敏夫専務は、だから大きな期待は持たずにかけた電話だった。幕開けの道立近代美術館がうまくいかなくても全国には600を超す美術館があるのだ。営業をコツコツ積み重ねれば、いつかは関心を持ってくれるところが現れるだろう。
ところが、A近代美術館の話を出した瞬間に、相手の反応が変わった。
「えっ、A近代美術館でそんなに凄いことが起きているんですか。しかも、日本の製品で! それは素晴らしい。是非検討させてください。はい、資料が届くのをお待ちしています」
1件目としてはこれ以上ないほどの反応だ。気をよくした敏夫専務は次の相手に電話をかけた。北海道立函館美術館だったと記憶にある。
「なるほど。そんなに美しいマフラーだったら、うちの来館客にも評価していただけるかも知れませんね。是非資料を見させてください」
幸先がいい、では言葉が足りない。釣りに例えれば入れ食い状態だった。敏夫専務は勢いづいた。
写真:北海道立近代美術館です。同美術館のご厚意で使用を認めていただきました。