話を本筋に戻そう。
松井ニット技研がA美術館ブランドのマフラーを作る。松井ニット技研にとっては棚からぼた餅のようないい話である。あとは細部を詰めるだけだ。最初に納品するマフラーの色、柄、素材、編み方などを決めなければならない。
A近代美術館の購買担当の女性たちとの会話は具体性を増した。素材はウールにする。柄は格子がいい。房は絶対に必要。色の選択、配色は松井ニットが用意した色見本からA美術館が選んでデザインする。そして松井ニットが編む。
A美術館と松井ニット技研の共同開発である。あれよあれよという間にA美術館ブランドのマフラーの企画が出来上がっていった。それに満足したのが、一行は満面を笑みにして桐生を去った。
バイヤーの女性が持ち帰ったマフラーの企画は会議で承認されたらしい。翌2000年の春、A近代美術館からマフラーの注文シートが日本のエージェントを通して初めて届いた。発注量などもA近代美術館との契約があるため具体的にはかけないが、初めての取引としては良くも悪くもない数でしかなかった。というより、A美術館という新しい販売ルート、アメリカという巨大な未知の市場への2人の期待が大きすぎたためか、拍子抜けするような数でしかなかった。
「たったこれだけ?」
それでも、新しい市場に最初の一歩を記したのである。それだけでも良しとしなければならない。
やがて桐生を抱きかかえるように連なる山々の木の葉が赤く、黄色く色づき始めた。秋が深まり、マフラーシーズンの到来である。それを待っていたかのように、A近代美術館から追加注文が飛び込んだ。今回も初回と同じ数である。
「まあ、一つの柄でこれだけなら、まずまずの成果か」
当時の松井ニットでは、一つの柄のマフラーの出荷数は2000本前後だった。2回分合わせてもそれには遠く及ばないが、新しい取引先からの注文としてはやっと胸をなで下ろせる数にはなった。
しかし、それは始まりにすぎなかった。間もなく3度目の注文がきたのである。そして、喜んでいる間もなく、4度目、5度目‥‥。
「このシーズンだけでずいぶん出荷しました」
と敏夫専務は目が回るようだったあの年の忙しさを思い出した。
ニューヨークのA近代美術館では、松井ニットのマフラーは羽が生えたように売れ続けていた。アメリカという巨大な市場に、松井ニット技研は確実にくさびを打ち込んだのである。