昭和28年(1953年)、智司少年は桐生高校に進んだ。父・實さんはすでにない。東京の会社に貸していた工場の契約が終わったあと、母・タケさんは市内の機屋さんから中古のラッセル機を譲ってもらい、編み物工場を始めた。セーター地や安価なカーテン地を作って細々と家業を継いでいた。
タケさんは實さんに嫁ぐとき、
「我が家の身上(しんしょう)の半分はお前が稼ぎ出した。それをすっかり持たせてやるからな」
と両親にいわれたという。広沢町から途中にある渡良瀬川を渡し船で渡って桐生女子校に通いながら、それほど実家の仕事を手伝っていたのである。それだけに、夫を亡くして一家の大黒柱にならざるを得なくなったとき、
「自分ががんばらなければ」
と踏ん張ったのだろう。
智司少年が高校に入る頃、市内の職人さんにラッセル機の改造を頼んだ。パッとしないセーター地などに見切りをつけ、東京の問屋に勧められたマフラー生産に切り替えるためである。セーター地などを作るラッセル機は、そのままではマフラーの房を編むことができない。マフラーを作るとなると機械を改造し、房も編めるようにしなければならないのだ。
子どもの頃から工場が大好きだった智司少年は毎日のように工場に入り、職人さんの仕事を眺めた。職人さんの手でらラッセル機が生まれ変わる。まるで魔法を見ているようで夢中になり、改造法を脳裏に刻み込んだ。それがのちに、自分で編み機を改造し、いまの松井ニット技研のマフラーを生み出すことになるとは、当時の智司少年が知るはずもない。
ラジオドラマ「君の名は」が
「放送時間になると銭湯がガラガラになった」
といわれるほど大ヒットしたのはその頃のことだ。間もなく映画にもなり、「真知子巻き」と呼ばれる巻き方をしたマフラーが大ブームになった。マフラー専業となった松井工場は戦前の活気を取り戻した。
このころ智司少年は、大きな美術展が東京で開かれるたびに足を運ぶようになる。ミロのビーナスが来たと知っては出かけ、ゴッホ展と聞くと顔を出す。モナリサがやってきたルーブル展も見た。ちょっとした美術愛好家になったのである。
アルタミラの洞窟壁画の躍動感にショックを受けたのは中学生の時だった。以来、美術ノートは詳細にとった。しかし、美術展に行くことはなかった。
「中学以来、雑誌や美術全集で西洋の絵画を見るようにはなっていました。和の美しか知らなかった私が、美術の授業で西洋には全く違った美があることを知ったのは一種のカルチャーショックだったんですね。それが時間とともに私の中で発酵し始め、本物の西洋の美を見てみたいと思うようなったということでしょうか」
ある時は友人を誘って、ある時は一人で、東京に行った。
混み合う美術館で、まるでところてんのように押し出されながら見ただけだが、今になっても忘れられない1枚の絵がある。ゴッホの「糸杉」(冒頭の写真)である。
「燃え上がるような糸杉が空と山を背景にすっくと立っている。その絵の具の盛り上がり具合、選ばれた色、その重ね方など、いまでも鮮明に思い出せます」
和の美で育ってきた智司少年は、西洋の美を代表するゴッホの秀作を見ながら、
「たくさん見てきた丸帯にも、こんな色使いはあったな」
と、違和感より親しみを覚えた。そして何より、美しいと思った。持って生まれた才覚が、また新たな肥料を得て一回り大きく育った瞬間だった。
写真:ゴッホの「糸杉」