開拓営業には、金と時間と人手がかかる。最先端の技術が生み出した画期的な、競争相手がいない新製品でも、それなりのものを投入して手間暇をかけなければ市場はなかなか門戸を開いてくれない。それがいまの常識だろう。
一方、松井ニット技研が売ろうとしているのはマフラーである。すでに世の中にはマフラーの市場が確立し、溢れるほどの製品がひしめき合っている。その既存の市場に新しく参入して一定の位置を占めるには、相当な力業がいると考えるのも常識だろう。
素人が撮った、決して巧いとはいえない写真とフェルトペンを使った手書きの文字で急造した原本を、コンビニでカラーコピーした「資料」だけでその市場への参入を図る。無手勝流とまではいうまい。しかし、敏夫専務が始めたのは愛馬ロシナンテにうちまたがって風車に挑みかかったドン・キホーテにも似た、一昔、いや、二昔も三昔も前の開拓営業であるとはいえる。
ところが、世の中は不思議なものである。
多くの美術館が即座に門戸を開いてくれたのである。
「当館はとりあえず10本お願いします」
「うちは30本から始めます。出来るだけ早く送ってください」
次々に注文が舞い込み始めた。
10本? 30本?
「たったそれだけ?」
と、意外の感に囚われる方もいらっしゃるかも知れない。確かに、ある見方をすれば、たったそれだけ、である。だが、ゼロから出発したのだ。0が10、30になるということは、増加率は数学的には無限大である。
松井ニット技研は、こうして新しいニッチマーケットの扉を押し開いたのだった。
それから1、2年後のことである。智司社長が編み物組合の旅行で岡山に行った。
「そういえば、倉敷市の大原美術館にはまだ声をかけてないんだったな」
そう思いついた智司社長は、出がけにマフラーの見本と営業資料を鞄に詰め込んだ。岡山に着くと、
「申し訳ありませんが、ちょっと寄りたいところがあるので」
と同行者たち断り、一人で大原美術館に寄った。
「そうしたら、どうしてもっと早く声をかけてくれなかったのか、とお小言をいただきまして」
こうして取引が始まった大原美術館はいまでも、松井ニットのお得意先の一つである。そしてこの頃には、このあとで詳しく触れるが、松井ニットが生産するマフラーの25〜30%が、自社ブランド「KNITTING INN」になっていた。問屋などの中間業者を省いて美術館と直接取引するので中間マージンがなくなり、利益率は膨らむ。OEMの注文は相変わらず減り続けたが、松井ニットは黒字転換を果たしていた。
写真:大原美術館