兄の隆さんは家業を継ぐことを嫌がり、すでに家を出て大阪の染料会社に就職していた。であれば次男の自分が「松井工場」を継がねばならない。そのためには、もっとたくさんのことを知らねばならない。中学の時は京都工芸繊維大学への進学を漠然と夢見ていたが、この頃には
「京都工芸繊維大学に行く」
という決意を固めていた。
ところが、入試が目前に迫った高校3年の秋、母・タケさんの体調が急におかしくなった。おそらく、自分ががんばらねばと積み重ねてきた無理がたたったのだろう。勝ち気な明治女である。朝は早くに起き、夜は遅くまで夜なべ仕事を続ける。子供たちに、自分が寝ている姿を見せたことがなかった。それが一気に吹き出したのに違いない。医者に診せても、なかなか快方に向かわない。それでも母は一家を守るため仕事から離れない。
「これは、大学に進むのは無理だな」
智司少年は一人決意する。自分がそばにいて母を支えなければならない。
兄は
「だったら地元の群馬大学工学部(現理工学部)にしろよ。あそこなら家から通えるじゃないか」
と進学先を変えるように勧めてくれた。群馬大学工学部は、桐生の旦那衆が繊維産業の各分野の専門家をたくさん育てようと大正4年(1915年)に作った「桐生高等染織学校」が始まりである。この当時も繊維に関係する教育・研究のレベルは高かった。「松井工場」に生かせる知識も豊富に得られるはずである。
しかし、智司少年の決意は変わらなかった。 俺は大学には行かない。
「だって、群馬大学工学部で学ぶのは『工学』なんです。私が行きたかったのは京都『工芸』繊維大学なんです。違いますよね?」
確かに、「工学」で学ぶのは、より良いものをより安価に作る産業技術であろう。だが、「工芸」はそれだけでは済まない。最高の機能に加え、誰もが欲しくなる美しいものを創り出す感性を育てる分野ではないか。
当時、「松井工場」が作っていたマフラーには、まだデザインの要素はない。白一色のウールの糸を粗く編み上げたマフラーで、他の会社が作っているものと違いはなかった。それが、智司少年が「継ぐ」と決めた家業だった。「工学」が生きる仕事ともいえる。
それでも、なぜか智司少年は「工芸」にこだわった。工芸品とは、実用と美術的な美しさを融合させたものをいう。将来自分がマフラーのデザインをするなどとは、当時の智司少年は考えもしなかったし、できるとも思わなかった。それなにのに、自分の中に根付いた「工芸」へのこだわりを捨てて「「工学」に飛び移ろうとは思わなかった。
様々なことが好き勝手に生起するのが人生である。しかし、三つ子の魂百まで、という。あとでよくよく眺めると、てんでんばらばらに見える中に、1本の筋が通っているのも人生なのではないか。
いや、少なくとも智司社長の人生には、本人が意識しないまま、1本の筋が通っていた。それがいまの智司社長に結実しているのである。
写真:高校の同級生と。中列左から2人目が松井智司さん。