【ほかがやらない仕事】
下山縫製は下山湧司会長の父、清次郎さんが興した。清次郎さんは、戦争中に鉄=織機の供出を求められて廃業するしかなかった機屋の長男である。桐生工業専門学校(群馬大学理工学部の前身)を出て市内の縫製会社に勤め、1950年代の初めに独立した。
父が興した事業は順調だったが、湧司会長には跡を継ぐ気はなかった。高校を出ると東武鉄道に就職し、サラリーマン生活を始めた。
ところが、である。このサラリーマンというやつが肌に合わない。
「だって、働いても働かなくても給料は一緒。どうにも納得できなくて、仕事が嫌になったんだ」
働けば働いた分の見返りがある父の会社に入ったのは23、4歳の時である。
清次郎さんは、得意先1社の仕事を丁寧にこなす職人だった。繊維製品の需要が年を追って増えていた時代である。それでも捌ききれないほどの仕事に追われた。湧司会長は父のもとで縫製を学び始めた。
繁栄を続けた織都・桐生に陰りが見え始めたのはいつからだったろう? 健全な経営を続けていた下山縫製もその例外ではなかった。少しずつではある。だが、確実に仕事が減り始めた。
「これはいかん。受注先を増やさないと大変なことになる」
湧司会長が頻繁に東京に出てアパレルメーカー、問屋を回り始めたのは36歳の時だ。飛び込み営業である。自分で縫った見本を抱え、足を棒にして歩き、粘りに粘った。
とはいえ、総ての訪問先には縫製の仕事を出している先がすでにある。そこに潜り込むのは生半可なことではない。
「だからね、ほかがなかなか引き受けない仕事はありませんか? ってやったんだ。どんなに難しい仕事でも、うちならできます、ってな」
言ったからにはやらねばならない。湧司会長は
「父は気になることがあると、何とか解決してやろうとする」(下山光政社長)
人である。もぎ取るにようにとってきた注文をこなそうと、脇目も振らずにミシンと格闘し始めた。
少しずつ仕事が増えた。ミシンを増やし、縫子さんを集めた。縫子さんは若い女性ばかりだ。敷地に寮も建てて30人以上を使うようになった。
ほかの縫製業者が敬遠する仕事を率先して引き受ける下山縫製には技術が蓄積し始めたのは自然な流れだろう。
いま下山縫製が、
「ほかが引き受けない仕事、安くない仕事」
を仕事の中心に据えているのは、自分たちの技に対する自負心の表れだ。