ところが、あれほど堅固だったはずの「自信」という建物が、日がたつにつれてガラガラと音を立てて崩れ始めた。
「おかしいな。前の授乳から丁度2時間だけど、貴弦が乳首をくわえてくれない!」
「何で貴弦はこんなに夜泣きするの? お乳もあげたばかりだし,おしめも替えてやったのに」
「貴弦が原因不明の熱を出した。下痢、嘔吐を繰り返す。小児科でもらった薬を呑ませているのに熱は下がらないし、下痢、嘔吐も止まらない。どうしたらいいの?」
次から次へと問題が湧きだしてくる。渉さんは昼間は仕事だ。貴弦くんと2人だけの昼間、解決するのは自分しかいない。
ネット社会である。分からないことはググる。すぐに答らしきものがみつかる。
「でも、ダメなんですね。子どもの症状って一人一人違う。ネットで出会った答が、そのまま貴弦に当てはまるかどうか分からないんです。それに、ほかの人は凄いな、こんなことまで知ってるなんて。私はダメな母親なんじゃないか、って落ち込んだりもしました。情報が多すぎるのも考え物なんです」
最も苦しめられたのが自己嫌悪だった。貴弦くんが昼寝をしている間に家事を片付けようと思うが、夜の授乳で睡眠不足の毎日だ。横になって寝かしつけているうちに自分も寝込んでしまい、気がつくともう夕方。
「家が片付かない。ご飯が作れない。私は家事も育児もろくに出来ない出来損ないだ、って自分を責め出しちゃって」
自分にダメ出しするから渉さんが帰宅するのが怖かった。トイレで一人泣いた日もある。涙を出し切ってトイレから出て、母を求めて泣き疲れて眠っている貴弦くんに何度謝ったことか。
結婚して間もなく、渉さんは企業を目指す夢を綾子さんに語ったことがある。
「ねえ、綾子。子育て中のママに特化したカフェをやってみないか? 調理科を出ているから料理も出来るし、俺、やってみたいんだけどな」
いま思い返しても、なぜ子育て中のママたちに絞ろうと思ったのか、全く記憶がない。ふとそんな気になった、としかいいようがない。
だが、当時の綾子さんはにべもなかった。
「だめよ、そんなの、うまく行かないに決まってる!」
綾子さんが妊娠するずっと前のことである。こうして、渉さんの夢はお蔵入りとなった。
貴弦くんの子育てに悩み、苦しむ綾子さんの姿に心を痛めながらも、渉さんの脳裏にカフェを開こうという夢はよみがえろうとはしなかった。毎日の仕事と子育てに忙殺されていた。
しかし、「カフェラルゴ」の種子があの時地に落ちたのは間違いない。夢はまだ産み月に入っておらず、生まれ落ちるまでにもう少し時間がかかっただけである。