シワが描き出す美 大東プリーツの3

それなのに、30歳を少し過ぎたころ父の仕事が気になり始めた。新しい製品を企画担当と打ち合わせたり、他社のものを調べ回ったりした仕事を通じて、服飾に占めるプリーツ加工という仕事の意味が少し分かってきたからかも知れない。

「それに、考えてみれば、父は創業間もない、一番お金で苦労していた時期に、何もいわずに私を東京の大学に行かせてくれた。これは恩返ししなくちゃまずいぞ、ってふっと思っちゃったんですよ。どうしたんでしょうね」

間もなく会社を辞め、桐生に戻った。

父の仕事を手伝ったことはなかったから、イロハのイから仕事を父にたたき込まれた。
徐々に仕事が面白くなったのは、プリーツ機メーカーで学んだことを少しずつ思い出すようになってからだった。10年以上前の、短期間の研修ではあったが、体にしみ込んだものがあったらしい。

「プリーツ機はこうしたらこう動く、この調整でこんな模様が描けるはず、って修業時代のことを思い出しながら見当をつけて動かすと、狙い通りの柄が出てくる。この仕事の楽しさが少しずつですが分かるようになって。そうそう、機械が故障しても大概は自分で直します。これもあの研修のおかげです」

アパレルメーカーで身につけたデザインへの感覚と、プリーツ機メーカーで身につけた機械への知識。2つの体験が佐藤さんの中で有機的に結びついて、いまの大東プリーツがある。父・健二さんの狙いがピタリと当たったというべきか。

「これ、大東プリーツさんじゃないとできないんだよね」

頼りにするアパレルメーカーがある。

「申し訳ないけど、こんな柄を出すには機械をどう調整したいいのか教えてもらえませんか?」

頼りにする同業者がいる。

「好きで始めた仕事じゃないのに、やってるうちに、これをこうしたらどうなるだろう、っていろいろ考えるようになって、思っていたようなものが少しできると、もっともっと、って手を加えて。そしてまあ、今日があるわけです」

写真:佐藤さんが産み出したプリーツの数々

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