チェルシー・カレッジの卒業制作では最高の評価を貰った。スイスのヤコブで積んだ実績もある。私はオートクチュール(高級仕立て服)の工房で働けるはずだ。
シャネル(CHANEL)、ディオール(DIOR)、ジバンシー(GIVENCY)、ウンガロ(UNGARO)、クロエ(Chloé)、ランバン(LANVIN)、ラクロア(CHRISTIAN LACROIX)……。
片倉さんは、最高級の折り紙がついたオートクチュールを作り続けている工房の門を次から次へと叩いた。ヤコブの門を開かせたのも、持ち前の突進精神である。パリでも何とかなるはずだ。
だが、どこも門戸を開いてくれない。私は何か思い違いをしていたのか?
仕事がない。家がない。肘鉄を食らうたびに不安が募った。とりあえず、ロンドンで知り合った友人宅に転げ込んだ。が、長居はできない。アパートを探した。まだ仕事は見付からない。いつまでこんなことが続けられる?
迎え入れてくれたのは、ヤコブでのコネを使ってアポイントを取ったドミニク・シロ(Dominiqu Sirop)だった。ジバンシーの右腕としてオートクチュールを手がけていたが、ジバンシーがルイ・ヴィトンを中核とするファッションのコングロマリット、LVMHに吸収されたのを機に、1996年に独立して自分の工房を持った。
パリに来て約1ヵ月。片倉さんはやっと足がかりを得た。
オートクチュールの仕事は、マネキンの上で布を仮組みする事から始まる。片倉さんに任されたのは、仮組みをパターンに落とす仕事だった。1㎜の誤差も許されない厳しい仕事である。折り紙が得意だった祖父・坂原光夫さんの
「端をピッタリ合わせないと最後に歪みが生まれてしまう」
という教えを心に刻んで作業を続けた。
翌1月にパリコレを控えた12月のことだった。ドミニクが片倉さんを招き寄せた。
「ウエディングドレスに洋一のケープ(袖のない肩掛けマント)を使いたいんだが」
オートクチュールのショウは、ウエディングドレスが最後に登場して締めくくる。そんな大事な作品のパーツを、ここで働き始めてわずか2,3ヵ月の私に作れと! 舞い上がった。そうか、最初に見てもらった私の作品を評価してくれていたんだ。
それからは多忙を極めた。スケッチを渡され、世界一といわれるルサージュの刺繍工房に注文を出し、パターンを描いて裁断作業……。何とか仕上がったと思うとデザインに修正が入る。そんなバタバタの連続である。
「最初は舞い上がったんですが、やっているうちに、責任の重さに押しつぶされそうになって……」
ショウ前日は全員徹夜だった。
それだけに、自分が創ったケープをまとったモデルが舞台に出た時、感動がこみ上げ、自然に涙が流れ出した。
「最高の体験をさせてもらいました」
だがこのころ、片倉さんは壁にぶつかっていた。ワーキングビザである。フランスではこのビザがないと3ヵ月しか働けない。片倉さんは八方手を尽くしてビザを取ろうと奮闘した。しかし、とうとうドアは閉じたままだったのである。
「働けないんじゃあ、パリにいる意味はありませんよね」
結局、日本でしか働けない。帰国せざるを得なかった。その日が迫ったころ、ドミニクが日本人のデザイナー、森英恵さんを紹介してくれた。パリのアトリエを訪ねて作品を見せると、
「7月のパリコレで使いたい」
と注文をもらった。まるで、ドミニクがくれた餞別のようだった。
ファッションの都パリで、やっと足がかりができたと思ったのに。5年でも10年でも、いやできれば生涯パリに暮らし、片倉ブランドを立ち上げたいと願ったのに。
パリコレが終わって間もない2004年3月末、片倉さんは帰国の途についた。