「やっぱり『珠』を作ってみようよ」
片倉さんが職場の仲間に声をかけたのは「000」からクッションを外すと決めて間もなくだった。クッションを作らないのなら、刺繍で作ったアクセサリーをもっと魅力溢れるものにしてより多くの人に
「身につけたい!」
と思ってもらわねばならない。2次元の刺繍ではデザインにも造形にも限界がある。だから3次元の「珠」がいる。挑んでみよう。
「やっぱり」というのは、刺繍で「珠」を作る話は、職場で一度出たことがあるからだ。1、2年前、次のライフスタイル展に向けて新しいアクセサリーを企画していた時、誰かが
「『珠』が欲しいよね」
といった。その時は
「無理、無理!」
とみんながいった。ベテランの職人さんたちは
「できるはずないだろ、そんなもの」
と真っ向から反対した。
いや、「珠」が欲しいといった本人だって、そんな常識破りができるとは思っていなかったはずだ。紐状ではアクセサリーにはなりにくい。出口はないか? と思案していて、
「刺繍で立体が作れたらいいよね。できないだろうけど」
程度の思いつきだったはずだ。
あの時の記憶はみんなに残っていたはずだ。だがこの時、片倉さんが
「やっぱり『珠』を作ってみようよ」
と呼びかけると、誰も
「無理、無理!」
とは口にしなかった。クッションを「000」から外した以上、決定的な何かがアクセサリーにいる。恐らく、そんな意識を全員が共有していたからだろう。挑んでみよう。「無理」を「できる」に変えてみよう。意欲がみんなの目から読み取れた。
片倉さんが「珠」を求めた理由はもうひとつある。
「000」の第1号に、「DNA」があった。DNA(デオキシリボ核酸)は独特の2重らせん構造をしている。これを模してデザインしたラリエット(留め具がない装身具。首の周りや髪に飾る)だ。
東京都内の百貨店の店頭に立って販促活動をしていた時だった。50歳がらみの女性が「DNA」を身につけてやって来た。片倉さんが、これは自分が企画、デザインしたものだと話すと、彼女が言った。
「ああ、そうなの。着けてるとお友達からよく褒められるのよ。とってもユニークで人とはかぶらない個性がいいわね、って。それに、軽いから着けててとても楽! でもねえ、デザインが目立ちすぎて、毎日は着けられないのよ。あ、また同じアクセサリーをしてる、と思われちゃうでしょ」
客の言葉には、往々にして製品開発のヒントがある。この言葉は片倉さんに刺さった。
毎日身につけることができる。それには主張しすぎない、悪目立ちしないシンプルなデザインでなければならない。「Simple is best. 」とはデザインの王道でもある。
さて、毎日身につけられるシンプルでお洒落なものとは……。真珠だ! 刺繍で真珠を作れないか?
シンプルで、笠盛のある群馬らしくて、日本の美を表現するもの……。シルクの糸で、真珠のような「珠」が連なったネックレスを作りたい!
片倉さんはそれを
「引き算の発想でした。英語にはLess is More.という言い方があるんです」
という。
いずれにしても、「珠」がいる。といっても、刺繍でどうやったら「珠」ができるのか、片倉さんにも仲間たちにも、具体案があったわけではない。何しろ、「珠」は無理、というのが刺繍界の常識なのだ。意欲だけは常識を打ち破ることはできない。
「次回のインテリア・ライフスタイル展までに、なんとか刺繍で『珠』を生み出さなければ」
ゼロからの挑戦が始まった。使える時間は、もう1年を切っていた。
写真:片倉さんの事務机