当時の大澤家には書生のお兄ちゃんがたくさんいた。
「紀代美ちゃん、上手な絵を描くねえ。絵が好きらしいな。よし、もっと上手になるように僕が教えてやろう」
書生の一人がそんな声をかけてきたのは5歳か6歳の時である。
「多分、東京芸大に通っていた学生さんじゃなかったのかしら」
彼はデッサンの基本を指導した。遠近法の手法も分かりやすく解説した。自然には光があり、光の当たり具合は季節、場所、時間など様々な条件で違うこと、光が当たれば反対側に影ができること、影にもくっきりしたもの、淡いもの、短いもの、長く伸びたものなどそれぞれ違っていること、それをきちんと書き込むことで絵に深みが生まれること……。
「紀代美ちゃん、今日は写生に行こう」
いい季節になると2人で近くの公園や山に出かけ、風景画を描いた。
幼い頃からセミプロ直々の指導を受ける。今でいえば英才教育である。その成果であろう。小学校に入って絵でもらった賞は数え切れない。
「でも、絶対に先生のいう通りには描かないんです。決まり切った型にはめられるのがいやでいやで、私の絵はいつも自己流でした。だからしょっちゅう怒られてましたけどね」
人に何といわれようと、頑として自己の信念を貫く。
怒られないためにはこうした方がいい、自分が得するにはあれをしなくちゃいけない、これをやっちゃダメ、言っちゃダメ。そんな世間風の知恵は、いまでも大澤さんにはない。とにかく自分を信じ、やりたいこと、やらねばならないと思ったことをやる。言いたいこと、言わねばならないと思ったことを言う。
男の子と野球に興じ、ボルトやナットで工作物を作り、先生のいうことも聞かずに自己流の絵を描き続ける。
「紀代美、そんなんじゃ嫁に行けなくなるぞ」
両親に何度たしなめられたか分からない。そんなものなのか、と思いはした。だが、大澤さんが人生のハンドルを親のいう方向に切ることはなかった。
自己流。三つ子の魂は、いまでも大澤さんの中で力強く鼓動を響かせているのである。