女工さんたちには、注文先が用意した下絵通りに縫えばいい仕事を回した。
「これは下絵通りでなく、一手間加えた方が良くなる」
と思ったものは自分で縫った。
「刺繍って、下絵通りに縫ってしまうと動きが死ぬの。だから、そこに刺繍ならではの一手間を入れなきゃならないのよ」
つまり、難しい仕事は一人でこなしたということだ。それでも
「受けた仕事の3分の1は私が縫っていましたね」
天職とも思った刺繍で、成人にもならない19歳での起業。事業の順調な拡大。順風満帆の人生に見える。だが、日々の仕事に追われながら、しばらくすると何故か大澤さんの気持ちは荒んでいった。
「私がやりたかったのは、こんな刺繍じゃない!」
そんな言葉が心の奥底から頭をもたげてくる。その言葉に
「そうなのよね」
と頷く自分がいる。
「私はお仕着せの刺繍を縫いたいんじゃない。刺繍で作品を創りたいのよ」
追い打ちをかける言葉が沸き上がる。
しかし、藤三郎さんが取ってくる注文はお仕着せの刺繍ばかりだ。下絵にいくらか手を加えて「大澤風」にはしたが、お仕着せはお仕着せである。いや、藤三郎さんが悪かった、娘の心を知らなかったというわけではない。当時、刺繍とはそのようなものでしかなかったのだ。
注文を忙しくさばきながら、大澤さんは額に入る刺繍を縫い始める。手刺繍を額に入れて飾ることはあっても、ミシンで縫った刺繍を額に入れることはなかった時代である。最初は鶴や鯛などおめでたい絵柄を選らんだ。どこかに
「これなら売れるかも知れない」
という、いま考えれば卑屈な思いがあったのかも知れない。
だが間もなく、大澤さんは思いを定めたように、横振り刺繍で肖像画を縫い始めた。おそらく世界で初めての試みである。初めて縫ったのがキム・ノヴァクだったことはすでに書いたとおりだ。
それでなくても注文の仕事は多い。ただでさえ1日の睡眠時間は4時間ほどである。その仕事を完全にこなしながら、注文などない刺繍の肖像画を縫う。
「ホントに、寝る間も惜しんで、という感じでしたね」
それでも大澤さんの気持ちはなかなか晴れなかった。