横振りミシンの針は左右に振れる。右膝でレバーを動かし、振れ幅を変える。目が、高速で上下しつつ左右に振れ続ける針を追う。医師に
「絶対にやってはいけない!」
と厳禁されていることだ。だが、目で針を追わなければ刺繍は出来ない。
「これはやばい!」
症状が何度も悪化した。そのたびに群馬大学病院を訪れた。
「大澤さん、何か無理してませんか?」
いぶかる医師には
「いえ、言われたとおり静養しているんですけど」
と答えた。シラを切り通すしかないではないか。
「悲母観音」の刺繍画が出来上がったのは、ミシンに向かって1年ほど後だった。175cm×100cmほどの作品である。小ぶりなのに、思ったよりはるかに長い時間がかかった。出来るだけ目に障らないよう休み休み作業を続けたからだ。額装し、大人4人で運び出した。目を患って初めての仕事である。久々の収入だった。
「ええ、経済的には干天の慈雨、でした」
仕事の緊張から解放され、群馬大学病院に検診に行った。
「大澤さん、もう通院やめていいですよ。大丈夫、右目の水の漏れがなくなりました。右目は助かりましたよ。ま、それでも注意しないと再発する恐れがあります。本当は刺繍の仕事は辞めてもらいたいんですけどね」
失明するかも知れないと覚悟を固めて「悲母観音」を縫ったら、病の進行が止まった。もう病院に行かなくても済むという。
「もっと病気が悪くなると思ってたら良くなった。だからおかしいのよね。私は信心深くはないので観音様の御利益だなんて考えはしないけど、でも、治っちゃった。おかしいでしょ?」
復帰した大澤さんは生き方を変えた。刺繍職人から刺繍作家になったのである。もう、創作刺繍しか手がけない。
「一時は自殺しようとまで思ったんですよ。病気から回復できて、ああ、これからの私には無駄に使う時間はないんだ、って思うようになって」
こうした決断が、絵画や彫刻と並ぶ、美術品としての刺繍画を生み出すことになった。評価は高まり、評判は評判を呼んだ。大澤さんの刺繍の個展が数多く開かれ、たくさんのデザイナーに頼りにされる時代の幕がこうして開いたのである。