大澤さんは2018年、78歳になった。10年ほど前に一度寝込んだがいまはすこぶる元気で、市内のマンションの一室を借りた自宅兼作業場「アトリエ きよみ」と、桐生の目抜き通りである本町通に設けた「シシュウ ギャラリー」を往復する毎日である。どちらにも愛用のミシンを備え付けていることはいうまでもない。
とはいえ、17歳で横振りミシンに魅入られてから半世紀はとうに過ぎた。60周年の大台すら突破した。世間の常識では、そろそろ落ち着いてもいいころだ。そこで、聞いてみた。
——これから何をしたいですか?
即座に答えが戻ってきた。
「もっと縫いたいの。もっともっと、これが私の作品というのを創りたい。それに、もう少し有名になってもいいし、そうね、お金も欲しいな」
まるで20歳の新進気鋭の刺繍作家である。身体は齢は重ねたが、大澤さんの心はちっとも老いていない。Forever Young。 年齢と一緒に老いるにはあまりにも内から吹き出す作家のエネルギーが強すぎるのだろう。
その大澤さんがいま力を入れているのは、後進の育成である。私に続き、私を乗り越えて道を切り拓く刺繍作家を育てたい。いや、育てるのが私の責任だ。
しかし、時代が違うのだろうか。これだけはなかなか思うに任せない。
刺繍の技を磨きたいという若人たちを教える仕事を始めたのは1990年頃からである。埼玉県大宮市にあったミシンメーカーが企画した、プロ向けの刺繍教室の講師を頼まれた。記憶では、初回は愛用のミシンを携えて全国から10人が集まった。
「みんな愛用のミシンをばらして空輸したんだって。いくらかかったんだろう、輸送費は受講料よりはるかに高いはず、って気の毒になったわ」
横振りミシンによる刺繍は、定説はないが桐生が発祥だといわれている。全国各地で横振りミシンを使っている職人たちは、桐生で学び、腕を見込まれて請われ、いまの地に移り住んだ人、それにその末裔が多い。
「だけど、桐生を離れた人たちは自分一人だけで刺繍を続けたのでいつの間にか自己流になっているの。その仕事を継いだ若い人たちも、教えられたとおりのミシンの使い方しか知らないから、発祥の地・桐生の刺繍職人から、本場の刺繍の技を学びたいと思ったんでしょうね」
大澤さんの目を驚かせた若者がいた。彼はミシンの下に自家製らしい箱を置き、その上に右足を置いて縫い始めた。右足は針の振れ幅を調整するレバーを操作する足である。
「あなた、どうして箱の上に右足を乗せてるの? そんな姿勢じゃやりにくいでしょう」
大澤さんの問いかけに、若者は答えた。
「オヤジがこうやってたんです」
振れ幅調整のレバーは上下に上げ下げして自分の体格に合わせることが出来る。だから足台なんていらないのに、この若者の父はそれを知らなかったらしい。右足を床に置くと、右膝がこのレバーに届かない。だから箱を置いて右足を乗せ、レバーを操作していたのである。それがそのまま子供に受け継がれた。
「あなたね、このレバーはこうすれば上下に動くのよ。自分の体格に合わせなさい」
まるで冗談のようなやりとりである。だがそれでも、この若者は大澤さんに出会ったおかげでミシンの正しい操作法を身につけた。
「そんな話はいっぱいあるわよ」
道具には正しい使い方がある。正しい使い方とは、一番疲れず、よりよい刺繍を縫える使い方でもあるのだ。