ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第20回 そして、いま

このあと大澤講師はあちこちで引っ張りだこになった。他のミシンメーカー、各地の刺繍組合、県職業訓練校、桐生までわざわざやって来る入門志願者……。


(刺繍教室で教える大澤さん)

 

 

 

 

 

(「大澤教室」で熱心に学ぶ若者たち。大澤さんを越える刺繍作家が生まれるか)

 

 

 

 

 

どのような生徒にも、大澤さんは基本から教えることにしている。すでに仕事として刺繍を縫っている人たちも、驚くほど基本を知らないからだ。

二重になっている刺繍枠は、外側の枠に金属製のねじがついており、これで生地の締め付け具合を調整する。

「あのね、このねじは2時の方向に置きなさい」

枠に入れる生地は縦と横に引っ張って生地をピンと伸ばす。このねじが12時や3、6時の方向にあると、生地に引っかかって破ってしまう恐れがあるからだ。

「ミシンの針は何故折れると思う?」

これも生徒に対する定番の問いかけである。何度も針を折り続ける生徒たちは誰も答えられない。

「針って固いように思えるけど、布に当たった時に少したわむんです。たわんだ時に生地を無理に引っ張ると、たわんだ針が下の金属部品に当たってしまう。だから折れるのよ。針に無理をかけてはいけません」

大澤さんのミシンへの愛は絶対である。これも生徒たちに伝えなければならない。

「ちょっと! 食事をするのはまだでしょう。ミシンってあなたにご飯を食べさせてくれるの。だったら、あなたがご飯を食べる前にミシンに油を差して上げるのは当然よね」

大澤さんの教えを受けた教え子たちは、もう500人を超えた。連絡が途切れた生徒も多いが、自分の場所で今日も刺繍に取り組んでいるはずである

「私は、私が持っているものはすべて教えますから。だから、私を追い抜く子が一日でも早く出て来て欲しいのよ」

だが、大澤さんは1日に20時間もミシンと格闘し、他のすべてを振り捨てるようにして道を切り拓いてきた。いまは何かと誘惑が多い時代である。自分の時間をすべて刺繍に注ぎ込み、大澤さんと肩を並べる若者が登場するか。

「私は教えてくれる人がいなかった。私は、私が出来るようになったことはきちんと教えます。だから、もっと短い時間で私のいるところまではやってこれると思うんだけど。そこからは本人の努力よ」

78歳。

「私にも、まだ使える時間は残っているわよね」

大澤さんは高らかに笑った。

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