そんなことは19歳の大澤さんには分かりすぎるほど分かっていた。17歳からわずか2年とはいえ、1日20時間前後も横振りミシンと取り組んできたのである。広い空間を刺繍糸で埋め尽くす難しさは重々承知だった。だから、これまで誰もやらなかった、ともいえる。
それでもやる。そうでなければ、大澤さんの中で火を噴いている作家魂が怒り始めるのである。
「だって、刺繍糸と生地の色、刺繍糸とペイントの色では質感が全く違うじゃなんですか。背景も刺繍で仕上げなくちゃ絵としての一体感が出ないでしょう。それは作品とは呼べないわよ」
実例を見ていただこう。
下の写真はどちらも大澤さんの作品である。描いているのはどちらも観音様。左は背景を縫わなかった。ベージュ色は生地の色である。
右は同じ観音様を描きながら、背景も刺繍をした。遠くに山並みが続き、雲がたなびく空は夕日のせいか黄金色に色づいている。それも、ところによって濃さが変わり、多彩な表情を見せている。透き通るレースのストールもこの背景があってはじめて生きる。
と私は思うが、皆様はどちらの観音様に軍配をお上げになるだろうか?
キム・ノバックの肖像の背景は、彼女の目の色と合わせて深緑の単色にした。それが、当時の大澤さんには精一杯の挑戦だった。
いま大澤さんが縫う背景は多色使いのグラデーション込みである。キム・ノバックでの単色で縫い潰した背景は最も単純な刺繍ともいえる。
とはいえ、それまで誰も手がけなかったことだ。何枚ぐらい失敗しました?
「いえ、1枚も。ええ、最初から思ったような背景が縫えました」
いま、そのキム・ノバック嬢は写真でも残っていない。一度お目にかかりたかったと思うのは、彼女にゾクッとする魅力を感じる筆者だけだろうか?