そんな家である。物心ついた大澤さんのそばには、いつも複数の女中さんがいてあれこれ世話を焼いた。文字通り、乳母日傘(おんばひがさ)で育った箱入り娘だった。
(大澤さん5歳=7歳だったかも知れない)
上に兄がいて、やがて弟、妹が出来た。4人は両親に同じように育てられたはずである。だが、なぜか大澤さんだけは少し違った子に育っていく。
朝、父の顔を見るとみんなは
「お早うございます」
と挨拶をする。だが、大澤さんだけはしない。
障子や襖を開け閉めする時に腰をかがめるのは、日本風の美しい挙措動作である。だが、大澤さんだけは立ったまま、足で開け閉めした。
どんなに叱られても、頑として自己流を貫いた。躾が行き届かない子であった。
「そんな私だったのに、築地の料亭の女将に『養子にくれ』って頼まれたらしいんです。5歳の時でした」
父が仕事で、その料亭を頻繁に使っていた。そのためか、女将がわざわざ桐生まで挨拶に来ることも多かった。
「その頃の私、お客さんが客間にいらっしゃると、お盆に両切りの缶入りピースと灰皿、それにマッチを載っけてお客さんのところに運んでいたんですよ。いえ、誰もそんなことを教えなかったし、やれともいわなかったんですけどね」
躾の行き届かない変わり者の子は、人の心をくみ取り、スッと入り込む術を生まれながらに身につけた子でもあった。
「だから、料亭の女将に『こんな子を仕込んでみたい』って思われたんじゃないですか。先々は店を継がせたいともおっしゃっていたといいますから」
銀のさじを口にして生まれ落ち、乳母日傘に守られていた大澤さんは、大澤家が我が世の春を謳歌している空気を胸一杯に吸って育った。彼女の周りは、服から調度品まで数限りない美しいもので埋め尽くされていた。周りにゴロゴロしている「美」が身体の奥底まで染み込まないはずはない。その中で、不思議な感性を持って生まれた大澤さんは人生に足跡を記し始める。