【職人の技】
「合格」は出発点でしかなかった。まだまだスレン染めに未熟であることは自分が一番知っている。照尉さんはそれからも、1人でスレン染めを突き詰めた。努力は報われる。いつの間にか、
「これ、全部スレン? 参ったな。うちじゃとても出来ないわ」
と東京の染め屋さんに驚かれるまでに照尉さんの技は磨かれていた。
2代目の貴之さんは大学を出ると、パールヨットの紹介で、スレン染めの先端企業に就職した。社長自らが設計した最新の自動染色装置を備え、バーバリーからトレンチコートに使う糸の染色も受注する大企業である。父・照尉さんが使い込んだ、古い、手動の装置しか見た事がなかった貴之さんには、工場全体が輝いて見えた。
しかし、少しずつ実態が見えてきた。最新鋭の染色機は、実は染められる色に限りがあった。染めムラができにくい薄い色なら、大量に一気に染め上がる。だが、濃い色は不得意だったのだ。
「そうか、まだまだ手業でしか染まらない色があるんだ。ホリスレンもやっていける」
そんな思いを抱いて、貴之さんが桐生に戻ったのは2年後だった。バブルの最盛期で、刺繍糸だけでなく、衣服用の糸も、コストがかかっても色落ちの心配がないスレンで染める、というメーカーも現れて、貴之さんは照尉さんと並んで、毎日夜8時、9時まで工場に立った。土曜も日曜もなかった。
その間に父の技を一つ一つ身につけ、改良出来るものは改良した。染め直しが減ったのはその現れである。
「スレン染料のメーカーですら知らないノウハウが、うちにはいっぱいありますよ」
だが、国内繊維産業の不況の波はホリスレンにも押し寄せている。刺繍の大所は中国・アジアに生産基地を移し、国内の刺繍業は整理淘汰を強いられている。刺繍の仕事が国内から減れば、刺繍糸の売り上げは落ち、ホリスレンの仕事も減る。
桐生が誇る刺繍作家、大澤紀代美さんももちろん、パールヨットの糸しか使わない。高い芸術性を認められている大澤さんの作品を、ホリスレンのスレン染が支えている。
「だから、ホリスレンには元気でいてもらわなくちゃ困るのよね」
横浜・中華街の中華料理店から、ホリスレンが染めた糸が欲しい、という話が来たのは2020年のことである。ちまきを縛るのに使いたいという。
ちまきと一言で言うが、いくつも種類がある。いまは同じ糸で縛っているが、一目で中身が分かるように縛る糸で色分けしたい。相手が食品なので色落ちは困る。だからスレン染めの糸で、というのである。
貴之さんは、パールヨットに話をつないだ。染めるのはホリスレン、売るのはパールヨットなのだ。
「なるほど、そんな使い方があるのか、と教えられました。もっと新しい使い道が出てくればありがたいですね」
ファッションの世界は日々様相を変える。色が落ちる懸念から解き放たれた高級衣服がもてはやされる時代もきっと来る。そう願うのは筆者だけではないはずだ。
写真:父・照尉さん(右)と貴之さん