2017年夏の、ある夕暮れのことだった。そろそろ夕食という頃、桐生市役所から電話が来た。
「小黒さんの店に行きたいといって、神奈川県から女性が見えています。ちょっと遅いけど、お店に案内していいですか?」
すでに店のシャッターは閉じていた。しかし、神奈川県からわざわざここまで。
「はい、いいですよ。シャッターは開けておきますから、どうぞ」
待つうちに、30歳前後と見える女性が店に入ってきた。調理の修行中なのだという。腕を上げるにはいい包丁がいる。そう思い立ち、いい包丁を探して名高い堺まで足を伸ばしたが、気に入ったものに出会えなかった。
そんな頃、知人が
「桐生に小黒さんという鍛冶屋さんがいる。小黒さんの手打ちの包丁は切れ味が良く、長切れする」
と教えてくれた。今日は仕事が休み。遅い時間になって申し訳ないと思ったが、1日も早くいい包丁が欲しいという気持ちに負けて来てしまった。
「そうでしたか。うちの包丁はね……」
話しながら、作り置きの包丁を出して見せると、女性の目が光った。まるでなめるように包丁を見、刃に指を当て
「これ、いただいていきます」
気に入ったのだろう。代金を払うと、自分で選んだ包丁を抱きかかえるようにして帰って行った。
「あの人、あの包丁で修行してるんだよねえ」
小黒さんは嬉しそうに思い出話をした。
彼女のような客が関東一円からやってくる。彼女のように、その場で買う客がいる。こんな包丁を打ってくれ、と頼んで戻っていく客もいる。一度では決心がつかないのか、3度、5度とやってきて、やっと自分の一丁を決める人もいる。