ぼちぼち注文が入り始めたのは、独立して5,6年たった頃である。
作るのは、習い覚えた鎌がほとんどだった。いつしか
「小黒の鎌は良く切れる」
という評判が生まれていた。教え込まれた技法に独学の工夫を加えた小黒さんは、鍛冶職人として確実に成長していたのである。
鎌の評判が広がると、だったら鍬を、と注文する客が来始めた。市内と周辺の農家に、小黒さんの農具の評判が広がった。
「農具がそんなにいいのなら、山仕事の道具もいいものを打つはずだ」
やがて山仕事の道具の注文が舞い込んで来た。桐生は山に囲まれ、山林が豊かである。山仕事をする人たちの期待を、小黒さんの刃物は裏切らなかった。評判が評判を呼び、仕事に追われ始めた。
すぐに、自分が打ったものだけでは、客に応じきれなくなった。独立して7年後、いまの場所に店舗を持ち、
「これなら普通に使えるだろう」
という刃物を仕入れて並べた。店の売り上げの8割は仕入れ品だった。小黒さんに刃物を注文しに来て、順番待ちの列が長く伸びていることを聞かされた客が、
「それじゃあ仕事に間に合わない。小黒さんの店に置いてあるのなら間違いないだろう」
と買っていってくれたのである。
もちろん、小黒さんは自分で刃物を鍛える鍛冶屋である。自作品を並べる棚を用意したのはいうまでもない。だが、そこはいつも空っぽだった。作るそばから羽が生えたように売れて行ったからだ。
中でも、鎌の評判が高かった。切れる。切れ味の持ちがいい。手入れさえすれば長く使える。自分が、自分の畑で一番使いやすいように刃の曲がり具合(田畑の土質で鎌の形も変える)や柄の長さ(背の高さで使いやすさが違う)が調整してある。
注文は市内だけではなかった。県内だけでもなかった。栃木県や長野県、福島県からも来た。遠くは島根県から電話で頼んでくる人がいた。
「別に宣伝もしなかったんだが、どうやって私のことを知ったのかね?」
小黒さんの仕事を野鍛冶という。農具を作る鍛冶屋さんのことだ。だから農鍛冶とも書く。どちらも「のかじ」と読む。
農具は道具である。道具としての刃物に求められるのは切れ味と使い勝手、それに持ちの良さだ。客が満足する道具を作り続けないと、ほかの鍛冶屋にいつか客を取られてしまう。
「お客さんにいいといってもらえなくちゃ」
野鍛冶の鎌専門鍛冶屋で修行した小黒さんの身体には、野鍛冶の根性が染みついて離れない。