1950年、朝鮮戦争が勃発した。日本は朝鮮半島に送り込まれるおびただしい数の米兵の中継基地、軍事物資調達の場となって特需に沸き、戦後復興の足がかりとなった。繊維の町である桐生も例外ではなく、2年後の1952年、桐生市の繊維製品売上高は戦後最高の売上高を記録する。第2次世界大戦の余熱も醒めやらぬうちに勃発した隣国の戦乱は、創業間もない「中島メリヤス」にも強い追い風になった。
戦地から戻った米兵の多くが、帰国の土産に「スカジャン」を欲しがった。ジャンパーに大きな和風の刺繍をあしらったスカジャンは神奈川県横須賀市の名を冠してはいるが、生産基地は桐生である。そして、スカジャンにはリブ織りの衿、袖、裾が必要だ。
桐生は分業が極端にまで進んでいる繊維の町である。降って湧いたようなスカジャンブームに、
「リブ織りの衿、袖、裾を作れるところはないか?」
この波に乗り遅れまいとする人たちがジャンパーのパーツ需要が急騰した。四郎さんが自力で改造した編み機が、休む間のないほどのフル稼働を始めた。
以来、「中島メリヤス」はセーターやマフラーに手を出すことはなく、ニットパーツ専業となる。
「うちのじいさんは孔子が好きで、宥座之器(ゆうざのき)という言葉を大事にしていました。中庸を説く言葉だそうで、つまり人間は欲をかきすぎてはいけないということでしょう。パーツ専業に踏みとどまったのはそのためかも知れません」
と敬行さんはいう。確かに、スカジャン景気に乗ってパーツ専業からセーター、マフラーに業態を広げていたら、いまの「中島メリヤス」はないだろう。セーターやマフラーは、ニットパーツに比べれば遙かに市場が広い。その分競争相手も多く、量産競争、価格引き下げ競争に巻き込まれて追い立てられ、大切な手編みの技がどこかに消え失せていたかも知れないのである。
だからだろう。敬行さんはいま、1つの計画を準備中である。手編みのニットパーツ製作を再開する。
「売るのが狙いではありません。コストはかかりますが、機械編みより手編みの方がはるかにいいものができる。うちの職員にその技をもっと掘り下げ、さらに機械編みへの応用も考えてもらいたくて、のことです。なにしろ、手編みは我が社の原点ですから」
ニットでの描画に挑み、手編みの技術を強化して一芸に徹する。「中島メリヤス」はニットパーツの1本道を歩き続ける。
写真:中島メリヤス製のポロシャツ衿