1995年は日程の関係で、インターフローラ・ワールドカップの国内予選と花キューピットのジャパンカップ大会が同じ宮崎市の会場で、同じ日に開かれた。まずジャパンカップの競技会が開かれ、その上位入賞者と、直近4年間の実績でワールドカップ予選への出場権を持つ人合わせて10人前後がワールドカップ予選で作品の出来を競った。近藤さんはワールドカップ予選への出場権をすでに持っていたから必要はなかったが、それでもジャパンカップにも出場した。
これまで6年間、この日に向けてデザイン、練習を積み重ねてきた。仕上がるたびに、自分で自分の作品に見とれた。努力は無駄ではなかった。これまでにないほど力はついているはずだった。
そして、2年前のワールドカップ・ストックホルム大会で日本代表のアシスタントを務めた実績もある。
だから機会があるたびに、周りの人たちは
「2年後のワールドカップは近藤さんだね。がんばって下さい」
と励ましてくれる。
近藤さんが自信をもって宮崎に乗り込み、この日に臨んだのはいうまでもない。
ところが、思いもよらなかった異変が起きる。最初に開かれたジャパンカップの作品を仕上げた時、何故か
「ヤバいなあ」
という思いにとらわれたのである。どこをどう間違ったのか、何が足りなかったのか、あるいは多すぎたのか、仕上げたばかりの自分の作品が光っていない。他の出場者の作品に比べてくすんでいる。
間もなく懸念が現実になった。結果は散々だった。上位10位にも入れず、等外に落ちた。
あわてた。自分にいったい何が起きたのか? 体中にみなぎっていた自信がどこかに流れ去っていった。気を取り直す間もなくワールドカップ日本予選が始まった。
「私が目指したのはジャパンカップの優勝じゃない。ワールドカップに出ることだ、世界一になることだ、と気を取り直したつもりだったんですけどね」
審査結果は2位。ワールドカップ日本代表は1人だけである。近藤さんの夢が、この時絶たれた。
「ジャパンカップで等外に落ちたことで動揺していたんですかねえ。2つの大会がいつものように別の日に開かれていたら結果は違っていたのでは、なんて考えたこともありますが、要はそれだけの実力だったんですね」
ワールドカップは4〜5年に1度開かれる。次の大会を狙うという選択肢もあった。しかし近藤さんにその選択肢は問題外だった。それでは42歳を越えてしまう。目標に据えていた村松さんと肩を並べることはできないではないか。
近藤さんは、夢を、捨てた。
「はい、踏ん切りをつけました。目標に届かなかったんだから、そうするしか仕方ありませんでした」
若き日の栄光にしがみつき、栄光を求め続けることに費やされる人生もあるだろう。しかし、勝つばかりの人生には陰影がない。いつもキラキラしている人生に深みが出るか? 人は皆、生まれ落ちて成長を重ね、頂点を極めたあとは多かれ少なかれ衰える。老いを得た身を人目から隠す俳優もいるが、老いた身を堂々とスクリーンに映し出すクリント・イーストウッド、ロバート・レッドフォードのような名優たちもいる。栄光だけが人生ではない。頂点から滑り落ちる深い挫折を知って初めて、さらに豊かになる人生もあるのではないか。
「ええ、そう考えれば、私は失敗して良かったのかも知れません。あれでワールドカップに優勝でもしていたら、鼻高々のいやな男になっていたかもしれませんから」
近藤さんはこのあと、新たな道を歩き始めるのである。
写真:宴席での近藤さん