日本1のフローリスト—近藤創さん その15 仏つくって

1980年代の後半、日本は未曾有の繁栄を謳歌した。株価、地価が天井知らずに上昇した。札束に羽が生えて日本中を飛び回っていると表現する人もいた。
そのバブル経済が崩壊したのは1990年である。景気が過熱したと判断した日本銀行は89年5月から金利を引き上げ始めた。歩調を合わせるように政府も地価抑制に動き出す。それでも日経平均株価は89年末に3万8915円の史上最高値をつけたが、さすがに年が明けると株価に伸び足がなくなった。こうして日本は失われた10年、20年、30年といわれる時代に足を踏み込んだ。

近藤さんが世界1への夢を諦めた1995年は、バブル経済の崩壊が地方都市でも肌身で感じられ始めた年でもあった。生花店の売り上げが落ち始めた。売り上げにブレーキがかかり始めた花屋さんは、後継者はともかく、店員までをコンテストに送り出すゆとりをなくし、勢いコンテストの出場者が減った。フラワーデザインの世界にもバブル崩壊の波が押し寄せてきたのである。

それなのに、作品はまだバブルの痕跡を引きずっていた。作品は相変わらず年々大きく、豪華になったのである。確かに、見応えはある。だが、狭い作業場しかない花屋さんには、大きな作品は練習する場所がない。やりたくてもできないのである。出場者の減少にますます拍車がかかった。

ワールドカップ国内予選から1ヶ月後、近藤さんは花キューピットの指導員を降りた。直接の引き金が世界1への道を絶たれたことだったことは間違いない。だが、世の変化を感じ取った近藤さんが

「このままではフラワーデザインが衰退してしまう」

という危機感に駆られたからである。世界1への夢は諦めた。しかし、フラワーデザインの衰退はなんとか食い止めたい。何をしたらいいのか?

続けてきた花キューピットの指導員を続けて全国の花屋さんを指導するのも1つの選択ではある。だが、近藤さんは違った道を選んだ。もっと身近な地元群馬のフラワーデザインを底上げしようと思い立ったのだ。私は1人しかいない。1人で出来ることには限りがある。薄く広く後継者を育成するより、身の回りに力を集めて地盤を踏み固める方がいいのではないか?

   近藤さんの作品 15

それまで群馬県は近藤さん一強の時代が続き、後進が育っているとは決していえなかった。大きなピラミッドを作ろうと思えば、基盤を大きく、丈夫にしなければならない。競い合うライバルが数多くいて初めて、その頂点に立つ者はほかの誰よりも高みに立つことができる。考えてみればこれまでの群馬は、基盤が小さいのに私だけが何故か高くにいた。それが失敗の原因ではなかったのか? 私以上のフローリストを地元から出したい。それにはフラワーデザイナーを増やし、育てなければならない。

近藤さんは32、3歳のころ、群馬県生花商業協同組合(群花協)の専務理事に頼まれて「フラワーデザインコンテスト 群馬グランプリ」を立ち上げていた。若手フローリストを育成するのが狙いではあった。しかし、近藤さんは相変わらず家業の傍ら全国を飛び回って講習会の講師を務め、様々なコンテストへの出場を重ねていた。地元で後進の育成に力を注ぐ余裕などほとんどかった。ジャパンカップの県予選として大会は毎年開催してはいたが、相変わらず近藤さんを脅かすような若手は出て来なかった。

「これでは、仏作って魂入れず、じゃないか、と気が付きまして。それで、魂を入れなきゃと思い立ったんです」

近藤さんは動き始めた。

写真:近藤さんは桐生えびす講の世話人も務める

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