善は急げ。近藤さんは大学を卒業するとすぐに桐生に戻って「花清」に入った。そしてもう1つ「善」が重なった。5月に祐子さんとゴールインしたのである。2人3脚の歩みが始まった。
己の美しさを競うように咲き誇る花々を商う生花店は、外目には優雅な仕事に見えるかもしれない。しかし、内実はかなり苛酷である。
花の仕入れは近藤さんに任された。
地元の生花市場には、高級な花はあまり回ってこない。だから、仕入れは東京・田町の芝生花市場ですると決めてあった。お客様に最高の花を届けるのが「花清」の使命なのだ。桐生市で、そんなに遠くまで花を仕入れに行く生花店はほかになかった。
仕入れは毎週、月曜、金曜の2回。その日近藤さんは朝4時に起きた。「HANAKIYO」の名を入れた2トントラックのハンドルを持ち、ひたすら東京を目指す。早朝で道は空いているとはいえ、片道2時間半は十分にかかる道のりだ。戻りは高速道路を使ったが、往復ほぼ5時間のドライブである。
市場で競りに参加し、狙った花を競り落としてトラックに積み込む。ひたすらトラックを運転して戻ると、もう夕方になっている。店に着けば、すぐに「水あげ」をしなければならない。茎が水に浸かっていない切り花は命のもとである水の供給を断たれ、いわば仮死状態にある。茎の下の方を切り落とし、残った茎を水に浸けてやって生き返らせるのである。1日が仕入れとその後始末で終わる。
仕入れに行かない日はフラワーアレンジメントだ。華道教室からフラワーアレンジメントに店の経営を切り換えていた宗司さんは、近藤さんが高校生の頃から花をアレンジした盛り籠を店頭に並べるようになっていた。桐生では「花清」だけの試みだった。当初は1日平均で5個ぐらいしか売れなかったが、時を追って評判が高まり、この頃は普通の日でも20個前後、母の日などには200個〜300個も売れる定番商品になっていたのである。それを、店員と一緒に作る。
生花店の花は、季節に応じて年間6〜7回入れ替わる。盛り籠はそれぞれの季節の花に応じてデザインしなければならない。店員にも盛り籠を作ってもらうから基本の形をつくる。毎年同じデザインでは飽きられてしまうので年ごとのマイナーチェンジも必要だ。それも近藤さんに任された。
そしてもちろん、客が来れば応対し、聞かれればそれぞれの花の扱い方、手入れの仕方を教えるのも大切な仕事である。毎日目が回るように忙しかった。
その多忙な仕事をこなしながら、近藤さんは毎年数回、フラワーデザインのコンテストに参加し続けた。出る以上、勝ちたい。そのためには、花をもっと学ばねばならない。もっといいデザインはないものかと探求し続けなければならない。
「24歳で最初の子どもが出来ました。妻が子育てしながら、そんな私を支えてくれました」
ところが、である。コンテストへの出場を繰り返すうちに、近藤さんは
「無冠の帝王」
といわれるようになる。ポイントは「帝王」にあるのではない。「無冠」にあった。何度出ても、上位には入るが、優勝できないのである。
「実力はあるみたいなんだが、どうしても勝てないんだよねえ」
と近藤さんを揶揄する響きが「無冠の帝王」には込められていたようなのだ。
何故勝てないんだ?
近藤さんは考え込んだ。20歳でJFTD(日本生花店通信配達協会)のフラワーデザインコンテストで2位になった私ではないか。あの成績は、まだフラワーデザインを学ぶ前のものだ。恐らく、華道の基本を身につけ、その基本の上でフラワーデザインをしたのがあの成績に結びついたのだろう。華道の基本はいまでも私の中にある。そして、あれ以来、フラワーデザインも学んできたではないか。東京フラワーデザインセンターの後継者にならないかと誘われたことだってあるんだ。
それなのに、何故勝てないのだろう?
写真:仕入れ用のトラックの前で、近藤さん