【30歳前で創業】
モーター修理専業だった父を亡くしたのは18歳の時だった。祖父と一緒にモーター修理を続けていた松平さんに
「アップリケの抜き型を作ってもらえないか」
と声をかけたのは桐生市内の刺繍屋さんだった。靴のひもを通す穴を空ける器具をモーター修理の副業としてやっていたのに目を付けたらしい。刃のない平鉄で数個の抜き型を作って納めたのがこの世界に入ったきっかけだった。だが注文は1回だけで終わり、本業のモーター修理と穴開け器具作りを続けているうちに、ふと
「靴は10数個のパーツで出来ている。穴開け器具じゃなく、パーツを抜く抜き型を作れば仕事が増えるはずだ」
と思いついた。30歳を前にしたころだったと記憶する。自分で治具を作り、穴開けの機械に取り付けて見よう見まねで抜き型作りを始めたのである。
当時桐生には大手靴メーカーの工場があった。靴にはモデルの違いがあり、サイズの数も多い。それに、毎年のように新モデルが出る。毎年数多くの抜き型を必要とするのである。
「見通しが当たりすぎましてね。ほとんど休めなかった、年末年始も大晦日まで工場に入り、正月4日には仕事を始めないと間に合わなかった」
いま靴工場は中国、アジアに去り、松平さんを頼ってくるのは市内、近郊、それに山形や東京の縫製屋さん、刺繍屋さん程度である。仕事量は随分減った。かつては職人も使っていたが、いまは1人で工場に立つ。
「でもね、布地がある限りこの仕事は必要だと思うんだよなあ」
松平さんは体が動く限り、鋼を曲げ続けようと思っている。
写真:刃の仕上げに使うベルトサンダーの前に立つ松平さん
懐かしい人に再会することができました。
もう40年ほど前になるでしょうか、私は松平さんを含む主に繊維関係の人たちと共に「桐生トライアル・クラブ」に所属していました。トライアルというモータースポーツは、今では大変マイナーな競技になってしまいましたが、かつては日本のオートバイメーカー4社すべてでトライアル用バイクを作っていました(競技用を含む)。トライアルを簡単に説明すれば、障害物の置かれたセクションという十メートル余りのコースを足を地面に着かずに走りきる(なるべく少ない足つき回数で走る)というもので、スピードは関係ありません。
クラブで借りていた菱の山の中で、みんなで真剣にセクションに挑んでいました。松平さんは、ここで紹介されているようにすでに金枠の仕事をされていましたが、ほかにも刺繍屋さん、織屋さん、刺繍の下工程のパンチ屋さん?(刺繍の針がどのような順でどの場所を刺すかをコンピューター入力する仕事)など、繊維でつながった皆さんが集まっていました。何かトラブルがあった時でも、話し合いをして案を出し合って乗り越えていくという、今考えてみれば、繊維会社の現場を見ているような光景だったなあと感じます。松平さんももちろんその中の一人で、ライディングの時も自分なりの工夫をして何度も何度もトライなさっていたことが懐かしく思い出されます。
ありがとうございました。