20世紀最後の年である2000年、桐生えびす講は100回目を迎えた。父の後を継いで世話人に就任した岡部さんはまだ総務ではなかったが、その頃から危機感を持っていた。
桐生えびす講を100年先の子孫たちに引き継ぐのが自分たちの仕事である。だが、今のままでは桐生の衰退とともに水没しかねない。100年前の先祖は桐生の繁栄を願って福の神=えびすの神を招いた。このままでは私たちが祖先の願いを断ち切ることになりかねない。
川の流れにじっと浮かぶアヒルは、しかし水面下では必死に流れに逆らって足を動かしている。時代という流れの中で生きる私たちも実は同じである。流れに押し流されないためには、必死で自分たちが動かなければならない。同じ場所にとどまるため、時代の流れに合わせて変化する。その努力を欠けば、いつかは流れに押し流されて消えてしまうのである。
第100回桐生えびす講はいい機会だった。岡部さんは動き始めた。
郷土史家で、群馬県文化財保護指導委員も務める平塚貞作さんを口説いて、「えびす だいこく 福の神」という小冊子を出版したのは第100回記念だった。えびす信仰、桐生西宮神社の由来、えびす講に伴う桐生の暮らし・習慣などをコンパクトにまとめた冊子は、格好の桐生えびす講入門書である。
あるいは、当時の世話人たちの
「桐生えびす講をなくさないぞ!」
という決意表明でもある。
2000年に手がけたのはそれだけではない。
桐生西宮神社のホームページ(http://www.kiryu-ebisu.jp/index.html)を開いた。
同じ境内にある美和神社の神楽殿を使って「福まき」を始めた。種銭(種をまけば芽が出る。このお金を使うとそこから芽が出て実り、たくさんのお金が戻る)、招福菓子、福鯛飴、地元商店のクーポン券を入れた袋を3000個用意し、若者が蒔く。毎回、数百人の善男善女が、いまや遅し、と待ち受ける人気イベントだ。
プロの神楽太鼓奏者・打楽器奏者の石坂亥士さんの「えびす太鼓」もこの年に始めた。たった一つの和太鼓が、ある時は軽妙に、次の瞬間には重々しく様々なリズムをたたき出し、神楽殿から境内に響き渡らせる。
それから7,8年たって、神楽殿前の広場に手を入れた。桜の木を切り、石灯籠を移設して整備したのは、地元の有力商店が軒を並べる「えびす横町」を生み出すためである。
桐生が誇るからくり人形師、佐藤貞巳さんのからくり人形小屋ができたのは2010年頃のことだ。からくり人形が本物の布を織る「白瀧姫」がデビューしたのは、この小屋だった。
2015年には、お神楽にあわせて白瀧姫がフラメンコを踊る「白滝の舞い」が登場した。オリジナルの舞踊を生み出したのは、地元のフラメンコダンサー、野村裕子さんである。冒頭の写真をご覧いただきたい。
そして2016年には桐生西宮神社の由来を易しく紹介したパンフレットを作った。お札を求めに来る参拝客に、もっと神社を、桐生の歴史を知ってもらおうという試みだ。同時に、「桐生えびす便り」を創刊した。毎年えびす講に合わせて発刊する年刊誌で、これも参拝客に配布する。
こうした動きに刺激されたのか、2015年からは神社近くの横山町の若衆たちが、独自に屋台を出し始めた。
「昔はうちの町内の近くまで出ていた屋台が、いつからかなくなった。えびす講が始まっても町内は暗いままで寂しい。だったら自分たちでやるか、と」
と語る新見直広さんは、
「いまは会社の経営で忙しいが、時間がとれるようになったらえびす講を支える一員になりたい」
という将来の世話人候補である。
いくら新しい試みをしてもすぐに時間の流れに埋没して「当たり前」になり、ひょっとしたら誰も
「変わったな」
とは気がついてくれないかも知れない。だが、流れの中で同じ場所にとどまるアヒルのように、これだけの努力が重なって初めて、えびす講は毎年変わぬ人の波を呼び寄せている。
しかし、これだけで人口減に対処できるのか?
岡部総務をはじめ、いまの世話人たちは
「これだけでは足りないだろう」
と口を揃える。
では、桐生えびす講をどう変えればいまの賑わいを維持し、さらに盛り上げることができるのか。
狙うのは、関東一円から参拝客を集めることである。毎年11月19,20日の桐生えびす講に、ある人はJRで、ある人は東武鉄道で、またマイカーでたくさんの人が押し寄せる。
岡部総務はいう。
「『関東一社』なんだから、不可能じゃないですよね」
2020年は東京オリンピックの年だ。その余熱が醒めない11月、桐生えびす講は第120回を迎える。絶好の機会である。それまでに新機軸を打ち出し、桐生えびす講を関東一円のお祭りにしたい。
世話人たちはいま、自分たちが引き受けざるを得ない大任を背負って歩き続けている。
この子たちに「桐生えびす講」を引き渡し、桐生の繁栄を取り戻してもらわねばならないのだから。