繰り返しになるが、桐生西宮神社は明治34年、西宮神社に分霊を認めてもらってできた。西宮神社を名乗るところでこうした記録が残っているのは関東では桐生だけだ。
隣の足利西宮神社は慶長8年(1603年)、時の代官が寄付を募って摂津国西宮大神を作ったのが始まりとある。桐生より歴史ははるかに長いが、西宮神社本社との関係は明らかでない。関東にあるほかの西宮神社も同じような事情で、本社直系と名乗ることができるのは関東では桐生西宮神社だけなのだ。
では、本社直系だと何が違うのか?
西宮神社本社は寛文3年(1664年)、江戸幕府から「日本国中像札賦与御免(にほんこくちゅうぞうさつふごめん)」を受けた。いわば、西宮神社が配布する御神影札だけが「本物」であると認められたのである。江戸幕府を後ろ盾にした著作権が確立したといってもいい。
その後西宮神社本社は、この著作権を背景に、お札と御神影札を布教のキーグッズとして使ってきた。全国各地に、本社から免許状を受けた「願人(がんにん)」というお札を配る人を置いた。この願人たちが、信者の家を1軒ずつ歩き、本社で版木刷りしたお札と御神影札を届けた。願人たちに免許状を出したのは、当時、えびす、大黒を描いた札を勝手に配布する動きがあったためだ。著作権を持つ西宮神社本社は、願人が届けるものだけが「本物」であると説明することができたわけだ。
願人は信者たちから「初穂料」を受け取り、集めて本社に送る。全国から集まった初穂料が本社を経済的に支えたのはいうまでもない。
それだけでなく、信者が増えれば願人の手元に残るお金も増える。つまり、本社と願人は、いまでいうWIN-WINの関係で結ばれていた。
そして、わざわざ遠い西宮まで足を運ばなくても、毎年新しいお札や御神影札を手にすることができる信者たちにとっても、このシステムはありがたかった。ここまで含めれば、WIN-WIN-WINの関係となる。巧みなシステムが布教の大きな動力になったのである。
明治維新で江戸幕府は崩壊した。西宮神社の著作権も、だから失効した。
制度としては意味がなくなったが、心は残る。本社に分霊勧請を認められた桐生西宮神社は、本物のえびす様を求めたのである。著作権が失効したのなら、勝手にお札と御神影札を作って売っても、どこからも後ろ指を指されることはない。だが、桐生西宮神社が頒布するお札と御神影札は、本社でお祓いを済ませたものである。
桐生西宮神社のえびす講には、西宮神社からの献幣使が来る。いまその役を果たしているのは本社権宮司の吉井良英である。
吉井さんはいう。
「桐生西宮神社の特徴は、本社の神札を直々にお受け頂き、頒布されているというところで、関東地区におきましては唯一です。本社と一体的な運営に近い分社ということで関東一社いう表現になっている」
だから、わざわざ兵庫県西宮市まで足を運ばなくても、桐生で本社と全く同じお札、御神影札を手にすることができる。
高品質の絹織物が町を栄えさせた桐生である。原料から染色、織り方からデザインまで、先行商品のまがい物を作っていたのでは、西の西陣、東の桐生といわれるブランド力は身につかなかったに違いない。
「例え著作権はなくなっても、本物とそうでないものの違いは残るはずだ」
本物に敬意を払い、本物にこだわり抜く。桐生西宮神社と桐生えびす講には、織都の歴史を通して桐生人のDNAに刻み込まれた習性が埋め込まれているのである。