これから国力を充実させようというカンボジアは、国力の基盤である国内産業を支える力を求めていた。若い技術者を育てねばならない。様々な技術移転を先進国に依頼して国造りに取り組んでいた。
左官職の技術もその1つである。国が豊かになればビルや家屋、マンションなどの建物が続々と建つはずだ。壁を塗り、床を作る左官職人が足りなくなる。左官職人を何としても育てなければならない。カンボジア政府が日本政府に要請し、野村さんを派遣してもらったのはそのためだった。
カンボジアに伝えるのは、日本の技能検定3級の進め方である。3級は最も簡単な試験で、日本では左官を目指す工業高校生も受験する。左官になりたての人でも、1年も仕事をしていればパスできる入門編といえる。技能レベルがまだそれほど高くないカンボジアに伝えるのは、この3級技能検定から始める。
ホテルに1泊した翌12日月曜日の朝、野村さんが向かったのは国立ポリテクセンターという高等職業専門学校だった。300人の職員がいて2100人の生徒が学ぶマンモス校だ。
野村さんたちに託されたのは、日本の技能検定試験の仕組み、進め方、採点法などを教えることだった。技能の底上げを図るには、技能のレベルを客観的に測る仕組みがいる。検定制度ができれば、左官を目指す若者たちは検定合格を目指した体系的な技能習得ができる。
野村さんに与えられた期間は1週間る。初日は下調べに費やした。会場に足を運び、技能試験に使う架台、鏝(こて)などの工具、材料を確認した。いくつもの問題が見つかった。
受験生に科せられるのは、下図のように作られた架台での作業である。架台は外枠が木で作られており、中の階段部分(図では、A、B、Cの面)にモルタル(セメントと砂、水を混ぜたもの)で1㎝厚の上塗りをする。出隅(でずみ=階段で踏み板と蹴込みが作る出っ張り)の角は正確に90度に仕上げ、出隅の直線は真っ直ぐでなければならない。平面はあくまで平らにすることが求められる。
下地_NEW架台の外形は幅60㎝、長さは90㎝ほど。木枠の中の階段はモルタルでできており、平坦な面の長さはBが30㎝、Cは48㎝、そして階段の高さは6㎝ほどだ。
架台の図面は事前に送っておいた。だからそれらしいものは用意してあった。だが、野村さんの目から見れば。
「ああ、これは架台になっていない」
仕上がりでしかなかった。出隅の線が一直線でない。欠けたりうねったりしていて角度もあやふやだ。受験生はこの下地の上に1㎝厚の上塗りをして出隅の角は一直線に、角度は正確に90度に仕上げることを求められる。だが、下地がこれでは、まだ左官初心者である3級の受験生には難しすぎる試験になってしまう。これでは技能の熟練度を測ることはできない。
日本ではこの直角と直線を正確に出すために、コーナー定規と呼ばれる道具を使う。それも事前に知らせてあったのだが、現地では手に入らず、他の何かで間に合わせたのだろう。
「これでは試験に使えませんねえ」
そういった野村さんはこういうこともあろうかと持参したコーナー定規と鏝(こて)を取り出し、この階段の出隅を修正し始めた。現地が用意した架台は9台あった。9台とも野村さんが修正した。
ふと思いついてカバンからコーナー定規をもう1本取り出した。
「これは日本製ですが、確かタイで作っているので、手に入るはずです。差し上げますから参考にして下さい」
問題があったのは架台だけではない。モルタルも日本では考えられないほど質が悪かった。砂が細かすぎるのである。そして工具も貧弱だった。カンボジアの左官の技能レベルはこの程度らしい。いや、それを自覚しているからこそ、日本の左官技能検定試験を学ぼうというのだろう。出発点は限りなくゼロに近いな。胸の内でそう考えた。
こうして1日目が終わった。
写真=国立ポリテクセンターの人々と。後列右から2人目が野村さん