森村さんは1950年2月の生まれである。父・義太郎さんは自動車部品を仲卸しする金井自動車部品を営んでいた。母方の祖父・山太郎さんは元小学校教師で、「露花」の俳号を持つ文化人だった。森村さんはおじいちゃん子で、骨董を愛でる山太郎さんの膝の上で一緒に骨董を見るのが好きだった。その影響だろう、小学生の頃から刀のつばを集め始め、みかん箱をいっぱいにした。中学生になると河原の石を集め始めた。教室で机の下に隠した石に見とれていて、先生に見つかったこともある。一風変わった子どもだった。
父の仕事は戦後の自動車ブームに乗り、暮らしは恵まれていた。大学を出た森村さんは家業に入った。しかし、仕事にはそれほど力が入らなかった。祖父・山太郎さんの血を受け継いだのだろう。骨董品に魅せられ続けたのである。給料が出ると、骨董屋に飛んでいく趣味人だった。
父・義太郎さんが2003年12月に身罷った。森村さんは長男である。父の初七日、霊前で誓った。
「私、がんばって家業を継ぎます」
さあ、もう趣味の骨董に現(うつつ)を抜かしている暇はない。2代目として家業を盛りたてなければならない。
だが、周りの目は違っていた。
「あんた、やっていけるんか?」
母・啓子さんと妻・悦子さんは口々にそういった。森村さんはお坊ちゃまの育ち。家業を手伝っていたとはいうものの、力が入っていたのは骨董品集めである。
加えて、自動車部品の仲卸という業態の環境が大きく変わり始めていた。客であった修理工場が部品メーカーとの直取引に乗り出していたのである。いわば、この世界でも流通革命が起きていた。そんな厳しい経営環境で、本当にあんたは会社をやっていけるのか?
「それでね、色々考えまして、父の四十九日に『やめよう!』って決めたんです。会社を閉じようって。もともと自動車はそれほど好きではないし、企業経営というのは私には向いていない、と決断しました」
閉じるといっても、突然廃業するわけにはいかない。3人いた従業員の再就職、取引先の問屋へのあいさつ、客だった修理工場が部品を調達できる道を開くこと……。やることはいくらでもあった。
「半年ぐらいは後始末に追われました」
さて、会社は閉じた。が、毎日ブラブラするわけにも行かない。身の振り方を考えなければならない。
「やっぱり、好きな事をした方がいいんだろうな、と考えました」
1年後、桐生市本町2丁目に美術・骨董品店を開いたのである。屋号を「同風軒」といった。趣味で集めてきた掛け軸、書画などの美術・骨董品と新たに仕入れた商品を並べた。ここの店主として暮らしを立てていくつもりだった。
ところがこの店主、とんでもない商売人だった。店頭に並べてある商品を売らないのである。個人の趣味で集めてきた品が客の目にとまり、
「これが欲しい」
といわれても、
「いや、それは……」
と理屈をこねて手放そうとしない。収集した美術・骨董品を売って収入を得ようと店を構えたはずなのに、いざとなるとひとつひとつの骨董品に惹かれて手に入れた時のことを思い出して手放せないのだ。
「それは、その……。それより、こちらはいかがですか」
と仕入れてきた美術品、骨董品を売りつけようとする。そんなだから、毎月の売上は目を覆いたくなるほどでしかない。そして、徐々に客が寄りつかなくなった。暇である。
そんな折りだった。
「ご主人、よほどお暇なようですね」
と店に入ってきた人がいた。すぐ近くの玉上薬局の店主、故・玉上常雄さんである。玉上薬局は文化文政期(1804〜30)に建てられた桐生市最古の建物で、11代当主の玉上常雄さんは郷土史家としても知られていた。
「聞くところによると、森村さん、あなたは歴史にも関心をお持ちのようですね。どうですか、桐生の歴史を少し調べてみませんか。どういうわけか、桐生にはお稲荷さんがやたらと多いんですよ。中には1軒の敷地に2つのお稲荷さんがある家もある。調べたら面白いと思うんですがね。腹ごなしにどうですか」
私が桐生の歴史を調べる? 考えたこともなかった誘いだった。確かに歴史も桐生も好きだが、素人の私に何かできるだろうか?
躊躇した。しかし、それから数日後、森村さんは「同風軒」の戸に鍵をかけて「外出中」の札を出し、鍵を閉めるとお稲荷さん探しに出始めた。
「どうせ客は来ないんだから、店を空けても同じことだと思いまして」
ユニークなアマチュア郷土史家、森村秀生が1歩を踏み出した。
写真:「同風軒」はこの看板を掲げていた