桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第5回 現れた斜めの線

桐生新町に残るお稲荷さんを訪ね歩いた森村さんは、それまで誰も考えたこともなかった桐生新町が生まれ落ちた時の姿を描き出した。

お稲荷さんは、45間、150間の間隔で規則正しく並べられており、それは約400年前の町立ての際の縄入れの目印だった。

それが、森村さんが得た成果だった。

普通なら、それで森村さんの桐生の歴史研究は一段落し、次の目標に向かって新しい研究が始まる。ところが、森村さんはお稲荷さんから離れることができなかった。森村さんが見出したお稲荷さんの並べ方の法則に従わない18のお稲荷さんがあったからである。

どれも、立派な祠をもつお稲荷さんだった。地図に記入したこれらのお稲荷さんの位置を目で追うと、本町通の北の端にある桐生天満宮から南南東に向って一列に並んでいるように見える。町立ての外郭をあらわしたお稲荷さんが作る南北の線を基準にすると、斜めの線である。その反対の先にあるのは桐生市仲町3丁目の常祇稲荷神社だった。
念のために定規を当ててみた。お稲荷さんはきれいに一直線上に並んでいた。

「この斜めの線はいったい何なのだ?」

900間×100間の桐生新町を町立てする縄入れには、どう見ても不必要な線である。しかも家の敷地内にあるから、どう考えても町立てと同時に置かれたとしか考えられない。町立てをした大野八右衛門以下の人々は、いったい何のためにお稲荷さんを斜めの線に沿ってに並べたのだろう?

森村さんの生家は本町6丁目である。常祇稲荷神社の境内は友だちと走り回る広場だった。だからだろう、近所のお年寄りたちは常祇稲荷神社に伝わる話をよく聞かせてくれた。

「桐生のお稲荷さんは、みんな常祇稲荷から分かれたんだよ」

「桐生天満宮の神様と常祇稲荷の神様は行き来されるんだ。2つの神社は御神渡(おみわた)りの道でつながっているんだ」

それが地元に伝わる話である。だとすれば、新しく姿を現した斜めの線にあたるものがあるとすれば、その御神渡りの道だろう。まっすぐ2つの神社を繋いでいるから,とりあえずの説明にはなる。

「だがなあ」

森村さんはどうしても納得できなかった。
八百万(やおよろず)の神が年に1度出雲に集まるという話は聞いたことがある。旧暦10月を神無月というのは、全国の神様たちが地元を留守にして出雲に出張するからだ。だから神様たちが集まる出雲では旧暦10月を神在月という。
だが、神様は地元で他の神様と交流するのか?

桐生天満宮は学問の神様といわれる菅原道真公と、道真公の先祖である天穂日命(アメノホヒノミコト)、それに祓戸四柱(ハラエドヨハシラノオオカミ=お祓いを専門とする4柱の神々)を祀っている。そんな神様が、もともとは農耕の神であるお稲荷さんとどうして行き来しなければならないんだ? それはないんじゃないか? だったら、この斜めの線は何なのだろう?

いくら考えてもわからない。桐生のお稲荷さんが400年間持ち続けた秘密を解き明かしたのは森村さんだから、他の人にこの斜めの線を聞いても知る人がいるはずはない。お稲荷さんに注目した人がいなかったのだから、お稲荷さんの並び方の意味を書いた文献もないのだろう。では、どうすれば斜めの線の秘密を解き明かせるのだろう?
わからない。わからなければ、当面は放っておくしかない。

森村さんはアマチュア史家である。学者や専門家のように系統立てて歴史を解明していく作業は苦手だ。その時そのときにたまたま関心を惹かれたテーマを追求するのが森村スタイルである。
ただ、森村さんの関心は常に桐生新町の誕生に向けられ続けた。

写真:青い線が、現れた斜めの線

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