もっと大久保長安を知らなくては。
東京・八王子市では、大久保長安は町の礎を築いた偉人として、いまでも市民の尊敬を集めている。森村さんは八王子市まで足を伸ばした。市役所の文化財保護課、大久保長安記念館……。「大久保長安の会」が活動していることを知ると、その講演会にまで顔を出した。
「大久保武蔵鐙(おおくぼむさしあぶみ)」という古書を、桐生競艇場の駐車場で定期的に開かれる骨董市で手に入れたのもこの頃のことだ。何気なく店を冷やかしていたら、第2巻、第3巻、第5巻、第15巻の4冊が並んでいた。
「大久保一族のことが書いてあるに違いない」
そう思った森村さんは、この4冊を買った。1冊、確か500円だった。聞くと、「大久保武蔵鐙」は全25巻の本だという。
「全部ほしい。揃えてもらいたい」
全巻が揃うまでに3ヵ月ほどかかった。その骨董屋は森村さんを余程の上客と見込んだのだろう。
「最後の方は、1巻1000円に値上がりしていました」
もとは江戸時代に出版された実録本(江戸時代に、当時の社会的事件を題材にして書かれた読み物)だ。寛政6年(1794年)には、その一部を翻案した歌舞伎が初演されているから、その頃までにはおおよその原形が出来ていたらしい。森村さんが入手したのは流麗な草書体で筆写され、和綴じされた本だった。森村さんはこの25冊の解読に取り組んだ。
森村さんはアマチュア史家とはいえ古文書が読める。草書も大丈夫だ。
「いや、桐生の歴史を研究するために勉強したんじゃありませんよ。実は、私の骨董趣味のおかげでして」
古い掛け軸には余白に文章を書いたものが多い。絵の評価などを書き込んだもので、これを「賛」という。森村さんは、そんな古い掛け軸をたくさん買い集めている。
「賛が読めないと、古い掛け軸の本当の価値は分からないんです。だから骨董を趣味にする以上、古文書は読めなきゃいけないんです。それに、もともと書道も趣味にしていまして、草書にも慣れているんです。桐生市の図書館で開かれていた古文書解読研究会には、まだ自動車部品を商っていた頃から通っていました」
だが、解読した「大久保武蔵鐙」は、天下のご意見番と言われた大久保彦左衛門の一代記のようなものだった。大久保長安は1〜3巻には登場するが、いわば長安の出世物語と長安の悪事を述べたもので、森村さんの長安研究にはあまり役立たなかった。
そこまで研究の幅を広げても、大久保長安=極悪人説、を覆す資料にはとうとうお目にかかることができなかったのである。
それでも、まったく実りがなかったわけではない。
大久保長安研究が深まると、森村さんは大久保長安の会の研究会に参加するようになった。そのついでに、大久保長安が陣屋内に築いたといわれる産千代稲荷神社を訪ねた時のことだ。対応してくれた神主さんからこんな話を聞くことが出来た。
「大久保長安は徳川家康公の11男、のちの頼房公を預かることになりました。当時は竹千代と呼ばれていた頼房公の無事な成長を祈願して創建したのがこの産千代稲荷神社だと伝わっています」
とすれば、大久保長安はお稲荷さんを信仰していたことになる! 「第4回 お稲荷さんは町立ての目印だった」で、森村さんは桐生新町と大久保長安、お稲荷さんのつながりを、足を使って調べ上げたと書いた。あの時は推測だといわれても仕方がなかったが、もうそんなことは言わせない。大久保長安は主君家康に託された竹千代の無事な成長をお稲荷さんに願うほどお稲荷さんを信仰していた。大久保長安を責任者として進められた桐生新町にお稲荷さんがたくさんある説明としてこれ以上のものがあるだろうか?
だがそれでも、森村さんは研究の足を止めるわけにはいかない。まだ大久保長安の汚名を晴らすことができていない。そして、桐生新町に現れた斜めの線の秘密はまだ残ったままなのである。
写真:大久保武蔵鐙全25巻