桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第9回 セレンディピティ

森村さんの資料庫にはもう1つ、新聞の切り抜きが保存してあった。郷土史研究家の清水義男さんが連載していた「大間々町の民話」である。日付も紙名も書き込むのを忘れたから、いつ、どの新聞に掲載されたかは不明だ。
見出しは

天海僧正の腰掛け岩

とある。大間々町は、桐生の隣、みどり市大間々町である。
その大間々町に天台宗恵明山正教院 覚成寺という寺がある。紹介されていたのは、その寺に残る言い伝えだった。その記事の冒頭をそのまま書き写そう。

「みすぼらしい姿の坊さんが『旅の僧』と名乗って、覚成寺という天台宗のお寺に一晩厄介になった。それにもかかわらず、寺では下にもおかず手厚くもてなした。翌朝、出立を前にして坊さんは,ご住職に
『旅の僧などと申して身分を偽り、誠に合いすみませなんだ。何を隠しましょう。拙僧は初代将軍の故・徳川家康公の分骨をお守りして、日光東照宮へ向かう途中の、天海と申す者でございます。この乞食の姿は,家康公の分骨を奪おうと企てる輩(やから)の目を眩(くら)ますための拙僧の謀(はかりごと)でございます。
このたびの思いもよらぬ厚遇に預かり、感謝のほかはありませぬ。身分を偽ったことをお詫び申しますとともに、昨夜来の温かいおもてなしに心から感謝申し上げまする』
と感謝の言葉を述べた」

      覚成寺

森村さんは「セレンディピティ」という言葉が好きである。恥ずかしながら筆者はこの言葉を森村さんの口から初めて聞いた時、意味が分からなかった。何とかその場をやり過ごし家に戻って調べてみると。「思いも寄らなかった偶然がもたらす幸運」という意味とあった。森村さん、難しい言葉を知っていますね。

「だって、私の桐生史研究はセレンディピティの繰り返しですから」

この記事を切り抜いた時は、

「へえ、そんなこともあったのか」

程度の軽い気持ちだった。天海僧正といえば、日本史を少しかじった人なら必ず出会う有名人だ。徳川家康のブレーンだったともいえる僧侶である。その天海僧正が桐生の近くに逸話を残している。これは切り抜いておかねば。

だが、桐生新町に現れた謎の斜めの線を解明しようと徳川家康の研究を始め、栄昌寺から寺院明細帳にたどり着いた。すると、数年前に切り抜いておいた新聞記事が大きな意味を持って蘇ってきた。これもセレンディピティのひとつだろう。

「それでね、桐生新町の町立てには、徳川家康、天海僧正がからんでいたのに違いない、と直感したのです」

その上、徳川家康の死の1年後、亡骸が久能山から日光に遷されたことは有名な史実だ。家康は久能山から日光に遷ることで「東照大権現」という神になった。
だが、天海僧正が家康の亡骸を、桐生、そして隣の大間々町を通って日光に運んだと、2つの寺の言い伝えはいっている。そんなことがあり得たのだろうか?

面白い。森村さんは徳川家康について書かれた20数冊の専門書を読みふけった。
それに天海僧正も調べなければならない。桐生市の図書館を通じて国会図書館に問い合わせ、天海僧正関連の書籍の目録を送ってもらい、必要だと思った本のコピーを取り寄せた。
森村さんの家に、資料が山積みになった。あれを読み、これを読む。だが、同じような研究をされた方には想像していただけると思うが、頭に知識を押し込みすぎると、頭が混乱する。森村さんも混乱した。
筆者が奉職していた新聞社の仲間は、このような状態を

「頭が麻婆豆腐になっちゃった」

と表現した。森村さんの頭も麻婆豆腐になった。

写真: 覚成寺に残る天海僧正の腰掛け岩=森村さん撮影

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