頭の中の麻婆豆腐を何とかしなければならない。
「それでね、それまでに知ったことをなんとか整理してみようと思ったんです」
家康、天海、大久保長安、それに桐生に関する詳細な関連年表を作ったのである。資料として使ったのは
・桐生市人物辞典
・太田市歴史年表
・桐生市略史
・国立歴史民俗博物館研究報告
・資料で読み解く群馬の歴史
・桐生市歴史年表
・享和2年覚書帳
・今泉村古事談
・日本史総合年表
・岩波・日本史事典
・慈眼大師天海年表
である。
これらを元に、天文5年(1536年)から寛政11年(1799年)までの、桐生と徳川家康、徳川家、天海僧正、大久保長安につながる史実を、扱い慣れないパソコンに打ち込んだ。小さな文字で10ページにまとめたのである。
天文5年————1536 天海生る 1—108歳
天文11年———1542 松平竹千代(家康)生る 1—75歳
と始まるこの年表の山場は、筆者の見るところ、見所は2つである。桐生新町の創生、そして家康の死に始まる家康の神格化である。その2つの部分を紹介しよう。
まず、桐生新町の町立てが行われたといわれている頃の年表である。
慶長10年 | 1605 |
4月
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家康(64)。林信勝(羅山)を諮問し、神龍院梵舜に神道を問う。「梵舜こそが人が神になれる」の方法を知る人物であった。——秀吉を神へと変えた人物である。
※徳川氏の系図を、新田氏の系図に繋げる作業に梵舜がかかわったといわれている。 |
天海年表 |
大久保長安の命により、大野八右衛門・初鹿野加右衛門が桐生新町創生す、と記載あるが、記載の年期は信じ難し。新町完成ではなく、町創りが始まったことであろう。 |
桐生新町が,八王寺町・青梅町・桐生新町と次々に創られてきた事実。桐生新町の規模の大きさを考えると、一地方役人の為せる町創りと思われない。大久保長安の桐生新町に対する設置理由は、三町とも絹産業の地であるが、共通の理由とは限らない。桐生に関しては、山王一実神道との関係が観える。 |
少し解説を加えれば、「神龍院梵舜」とは戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた神道家である。吉田神道を受け継ぐ吉田家の次男として生まれた。豊臣秀吉を祀った「豊国神社」の創立に兄の吉田兼見と尽力し、徳川家康が死去した際は葬儀を任された。
初鹿野加右衛門は、桐生新町の町立ての実務を取り仕切った技術官僚である。
次は家康が死ぬ前後の年表である。
元和2年 | 1616 | 1月24日 | 天海、喜多院を発つ。家康の病平癒祈願のため。 |
1月27日 | 天海、駿府到着す。 | ||
4月4日 | 崇伝より、京都所司代、板倉勝重に家康の遺言が伝えられた。 | ||
4月17日 | 家康死す。74歳。
家康の遺体をその日のうちに久能山に埋葬する。 ※家康公の神号を「大明神」にするか、「権現」にするかの論争があった。神龍院梵舜・金地院崇伝は「大明神」を主張し、天海は家康公が生前から天台宗に深い理解を示していたことから、山王一実神道の立場から「権現」を主張した。論争の末に天海は「豊国大明神(秀吉)の子孫はどうなったか」と問われたため,結局「権現」になったのだという。 日本大権現、威霊大権現、東光大権現、東照大権現の4つの候補が挙がり、幕府により「東照大権現」が選ばれることになる。 |
森村さんが作ったのは単なる年表ではない。これまでの研究成果で生まれた「森村史観」によるコメントが加わった独特な年表だった。
だが、桐生新町に走る斜めの線の謎は、まだ解けていない。
写真:森村さんが作った年表