森村さんはなんだかワクワクしていた。逸る心をなだめながら自宅に戻ると、桐生信用金庫に貰った関東の大きな地図を引っ張りだした。1mの長い物差しを取り出して久能山と日光の男体山を結ぶ線を引いてみた。久能山—富士山—世良田(太田市)—茶臼山頂上(桐生市)—半月峠(日光市)—男体山(日光市)。不死の道は確かに桐生の上を通る。
「桐生新町に浮かび出た斜めの線は、不死の道の一部だったのではないか?」
不死の道。それは、私は死後「八州之鎮守」、つまり八州を守る神になると遺言した徳川家康の魂が、東照大権現という神になるために通ったとされる道である。桐生はその道の下にあり、お稲荷さんがいまでもその道を守っている! やっぱり桐生は、徳川家康が特別な町として町立てを命じたのだ!
だが、興奮が冷めて冷静になると,違ったことが気になり始めた。森村さんが桐生新町に見出した斜めの線が不死の道だとすると、たくさんの辻褄(つじつま)が合わないことが出てくるのだ。
前回紹介した徳川家康の遺言は、亡くなる年の4月2日、本多正純、天海僧正、金地院崇伝に伝えたものである。家康が自分の死後について、まず久能山に葬り、1年後に日光に遺体を遷せと命じたのは、この遺言が初めてだというのが定説だ。それを覆す史料は見つかっていない。
一方、桐生新町の町立ては最も早い説では天正11年(1583年)、最も遅い説でも慶長10,11年(1605,6年)といわれている。桐生新町にお稲荷さんで斜めの線を描いたのは町立てと同時だったとしか考えられないから、それまでには家康と天海僧正の間で家康死後の計画がまとまっていなければならない。最も遅い慶長10,11年説を採ったとしても、遺言はその約10年後である。家康死後の計画に従って桐生新町の町立てが行われたとは考えにくいのではないか?
いや、遺言とは単なる形式である。家康は早くから自分が死んだ後のことまで考え抜いており、口にしたり文字にしたりはしないまま、死後の計画を実施していたと考えることもできる。関ヶ原の戦に勝利を収めたのが1600年。1603年に征夷大将軍になった家康は、わずか2年後の1605年、将軍位を秀忠に譲って大御所と呼ばれるようになった。この時期からいずれは訪れる自分の死を見つめ、自分の死後も徳川幕府、日本が安泰であり続けるにはどうしたらいいのかを考え始めたのかもしれない。
だが、家康は60代半ばである。大御所になったとはいえ、大阪城には豊臣秀頼がいた。家康はまだ天下を掌中にしていない。徳川家の安泰のためには現世でやるべきことが残っている。そんなに早くから、自分は死んだ後で神となって徳川家と天下の泰平を守るという計画を立て、神になるための準備を密かに桐生新町の町立てに反映させたのか?
家康は自ら漢方薬を調合するなど人一倍健康に気を配ったと伝わる。またこの頃は盛んに鷹狩りを催している。鷹狩りとは軍事演習の一環で、かなり体力を使う。つまり、健康には自信があったはずだ。その家康が、こんなに早く死後の準備を始めただろうか?
考えれば考えるほど泥沼に沈んでいくようだった。
迷った時は体を動かして頭を切り替えるに限る。実証すればいいのだ。森村さんは久能山から日光までの2万5000分の1の地図を手に入れた。これに「不死の道」を書き入れた。物差しを当て、慎重に赤のボールペンで久能山から日光・男体山まで線を引く。富士山を横切り世良田東照宮を経て茶臼山(桐生市)の頂上を越えた赤い線は、桐生天満宮の上を通っているように見えた。
勢いづいた森村さんは、さらに精密な1万分の1の地図で、確実に不死の道に重なった茶臼山の頂上から平井の山(桐生市梅田町)まで線を引いた。ところが、桐生新町に浮かび出た謎の斜めの線は不死の道とは一致せず、「不死の道」から10mほど西にずれていたのだ。だが、ほぼ平行して走っている。
上が桐生新町に現れた斜めの線。久能山から男体山に引いた不死の道と平行している。
「真っ先に思いついたのは当時の測量技術の問題です。正確な測量ができなかったのではないか、と。しかし、久能山と男体山は一直線に結ばれ、その線上に世良田東照宮、茶臼山の頂上があります。茶臼山の頂上には八王子の碑まであるのです。八王子といえば桐生新町の町立ての責任者だった大久保長安が治めた地です。ここを正確に通っている。だから、技術の問題とは考えにくい。でも、桐生新町の斜めの線は不死の道に平行しています。何らかの意味があるはずです」
その意味とは何なのだろう? 頼れる史料がなく、考えても解明できないのなら、セレンディピティを待つしかない。いつかきっと、その答えは思いもかけなかったところから顔を出してくれるに違いない。
森村さんは楽天家なのである。
写真:茶臼山の頂上にある八王子の碑=森村さん撮影