そして、鹿沼での4日間が残った。
川越では徳川家康を神にする大法要を営んだのだから4日間という日数は必要だっただろう。だが、鹿沼にはそんな記録はない。目的地である日光は目と鼻の先だ。たった1日の行程でたどり着けるところまで来て、総勢1000人を超える一行はいったい何をしていたのか?
そんな疑問を抱えたある日のことである。悦子さんは何の気なしにテレビを見ていた。すると深谷市にある天台宗の寺院・瑠璃光寺の住職が登場し、
「当寺には家康公の遺骨をもった天海僧正がこの寺に立ち寄ったという言い伝えがあります」
と話しているではないか。森村さんと一緒に桐生の歴史を探ってきた悦子さんは思わず森村さんを呼んだ。
「お父さん、大変だよ……」
瑠璃光寺のホームページには深谷市の有形文化財に指定されている仁王門が掲載され、こんな解説がある。
「寺伝や言い伝えによると、天海僧正が徳川家康公の遺骨を日光に奉遷する際、表向きは川越喜多院より忍・館林方面に行列を仕立て、実は川越より古鎌倉街道を深谷に下り、当山に立ち寄り、家康公の遺骨を狙う賊をやり過ごしてから世良田の長楽寺に向かったという理由により幕府より御朱印を賜り、この仁王門にも葵の紋が付けられています」
森村さんはテレビでその言い伝えにめぐりあったのである。これもセレンディピティだろう。
この言い伝えを考えてみた。川越から忍(おし)に向かうには東に方向を取る。深谷は川越の西方だ。とすれば、川越で天海僧正は本隊と別れて別行動をとったことになる。天海僧正は家康の亡骸から一時も離れなかったといわれる。とすれば、どういうことになるか。
世良田の長楽寺は天台宗の寺院である。関東に入った徳川家康が祖先の寺として重視し、天海を住職に任じた。3代将軍家光は日光の東照宮を今に残る豪壮な社殿にした際、それまであった古い日光東照宮の社殿をこの地に移設した。それが世良田東照宮である。瑠璃光寺に残る言い伝えを信じれば、家康の遺骨は川越から深谷へ、そして家康と縁が深い世良田(太田市)へと歩を進めたことになる。
森村さんの頭の中に蓄えられていた断片的な知識が音をたてて結び付き始めた。世良田から天海僧正が向かったのは桐生に違いない。栄昌寺である。「第8回 徳川家康に挑む」で書いたように、栄昌寺には天海僧正が徳川家康の亡骸をもって止宿したという言い伝えが残っていたではないか。
15.裏街道_NEW
(森村さんが作った、家康の亡骸が辿ったと思われる道の地図)
天海僧正が栄昌寺を出て向かったのは桐生市の隣、みどり市大間々町上神梅の覚成寺に違いない。「第9回 セレンディピティ」で「天海僧正の腰掛け岩」の伝説を紹介した。あの覚成寺にも家康の遺骨をもった天海僧正の話が残っているからである。
森村さんは妻・悦子さんと一緒に覚成寺に行ってみた。こんな看板があった。
北辰妙見大菩薩の由来
(徳川家康公の御守本尊北辰妙見大菩薩)
当寺安置の日本唯一の徳川家康公御守本尊北辰妙見大菩薩とは、今より三百五十年程前、家康公臨終の砌(みぎり)、側近である最高顧問の天海大僧正・本多正純・春日の局を招き、余亡き後は三代将軍は孫の竹千代を家光と定めること。そして吾が遺骨は久能山に葬(ほうむ)り、分骨を日光山に東照権現として祭るように遺言されたのであります。
そこで天海大僧正思うに、大坂冬の陣および夏の陣の戦後間もないこの時、豊臣方の残党諸国に潜伏し、機会あらば、徳川の天下を覆(くつがえ)さんと欲するおそれあることを察知するとともに、身の危険を考え、乞食僧に身を窶(やつ)して日光本街道を避け、裏街道(江戸・川越・妻沼を経て当寺門前の道)を進み来られ、やがて、当寺門前にさしかかり、近くにあった石を座所として一時の休息をとられました。それが寺宝の「天海大僧正御座石」ですそして、日も暮れかかった為、一夜の泊まりを当寺に願い出たのであります。
時に当寺住職思うに、人格・風格・風来、唯の乞食僧にあらずと識(し)り、山海の珍味をもって接待申し上げし処、天海大僧正いたく感激せられ身の素性を打明けられ,遺骨と共に奉持(ほうじ)せる家康公御守本尊を寺宝にと下賜(かし)されました。
これが当寺に安置されている「日本唯一の北辰妙見大菩薩」の由来であります。このような由来をもつ北辰妙見大菩薩とは、北斗七星を御身体として祭り暗蕗行く旅人の星明りとなる菩薩様です。
首をひねりたくなる記述もある。家康が東照大権現になったのはその死後である。「東照権現」として日光山に祀れと遺言するはずはない。桐生の栄昌寺に立ち寄ったという伝承が残っている以上、妻沼(埼玉県熊谷市)を通ればかなり回り道になるが、わざわざそんなルートを通ったのか? 山深い寺である覚成寺が、突然現れた客に「山の珍味」はともかく、「海の珍味」を出すことができただろうか……。
だが、1000人を超す大行列が通らなかったはずの深谷市の瑠璃光寺、桐生市の栄昌寺、そしてみどり市の覚成寺と、3つもの寺に、家康の遺骨をもった天海僧正が立ち寄ったとの言い伝えがあるのは事実である。
そして、瑠璃光寺、栄昌寺にはすべて徳川家の葵の紋の使用を許されている。
「この印籠が目に入らぬか!」
はドラマ水戸黄門の、助さん角さんの決めぜりふである。差し出され印籠には三つ葉葵の紋章が浮き出ている。腹いっぱい悪事を働いてきた者どもが一斉にひれ伏す。それほど権威があった徳川家の紋章を、2つの寺が欲しいままに使うことが許されたはずはない。
覚成寺には葵の紋はなかったが、「徳川家康公御守本尊北辰妙見大菩薩」が安置あされているという。これもみだりに公言していいものではないだろう。
3つの寺の伝承が全てでっち上げということがあり得るだろうか?。
天海僧正が家康の遺骨を日光山に運んだという「裏街道」は実在したのではないか? 川越から深谷・瑠璃光寺に向かったという天海僧正は、ほぼ「不死の道」に沿って歩を進めているではないか!
写真:深谷・瑠璃光寺の石板