【正確さ】
To err is human, to forgive divine.
(過ちは人の常,許すは神の業)
なぜか筆者の記憶から消え去らない英語のフレーズである。間違いだらけの人生を送っているからかも知れない。
機拵えという仕事は、何度も書くが単純作業の積み重ねである。要諦はたった1つ。間違わないことだ。
ところが、人は間違う。間違ってはいけないと思えば思うほど、間違う。人である以上、避けられない。
だから、一般の商品の生産では出荷直前の検品が欠かせない。目を皿のようにして点検する。傷を見つければ出荷を止めて手直しする。市場には傷、欠陥がないものしか出さないのは経営のイロハのイといえる。
ところが、架物つくりでは検品が事実上できない。上から下に向かって1万本前後の糸が流れている。糸同士が絡み合っていないか? すべて目板の正しい穴を通っているか? 点検しようと思えば、全ての作業を1から繰り返すのに近い時間がかかる。
しかも、点検作業をするのは、常に間違う人間である。点検したからといって、全ての通じ糸が正しく配置されているとは限らない。
「だからね、とにかく間違っちゃいけないんだよ、私たちは」
今泉さんは作業所でラジオを聞きながら作業をする。たまには流れてくる音楽に声を合わせて歌う。通じ糸の切りそろえなら、「ながら仕事」の方が気が紛れていい。束ねるのも、輪っかを作ってニスを塗るのも、できた通じ糸の束をナス管に引っかけるのも、ながら仕事である。
しかし、通じ糸を目板の穴に導く作業はそうはいかない。ナス管から下がった通じ糸はからんでいないか? この糸は正しい穴に通っているか? 1つでも見落としたり間違ったりすれば事故につながる。
だから、ラジオのスイッチを切る。一瞬でも他に気をとられれば間違う恐れがあるからだ。神経を集中させなければならない。
作業をしていると、何となく
「やばい」
と思う瞬間が10回や20回はある。やばい。いま、糸を通し間違ったんじゃないか? どんな時にやばいと思うのか、なぜやばいと思うのか。どう考えても分からない。ただ、やばい、と感じる。長年の経験で身についた勘というしかない。そのたびに今泉さんは作業の手を止め、間違いがなかったか確認する。
「確認、確認、確認、の連続なんだよ、私たちの仕事は」
それでも間違いが起きてしまうから厄介だ。出来上がった架物を機屋さんに運び、織機にセットする。終われば綜絖に経糸を通し、筬抜き(筬の羽の間に経糸を通す)を終えて帰宅したと思ったら、電話が鳴る。
「あんた、間違ったんじゃないの? 上手く織れないんだけど」
すぐに駆けつけて点検するのはいうまでもない。
「だからね、毎回ヒヤヒヤしながら納品するんだ。間違ってなきゃいいけどな、って」
経験を重ねるにつれて間違いは減った。いまでは年に1回あるかないか程度である。
「それでも、ヒヤヒヤは毎回するね」
機拵えとは、神経をすり減らす思いがする仕事である。
写真:作業合間の一服は欠かせない