縫製業→ブランドメーカー ナガマサの3

【素人】
東京の繊維問屋、桐生の縫製会社を経て、父・正さんが「長正商事」を興したのは昭和40年前後だった。長谷川博さんはその次男である。

「そもそも兄がいますし、家業を継ごうなんて思いもしなかった。大学を出たら広告代理店の仕事をしたかったんです」

ところが、就職活動で訪れた東京のアパレルメーカーのショールームが人生を変えた。

「ディスプレーされた服が何とも格好良く見えて。よし、この会社に入ろうと広告代理店コースを捨てました」

仕事は営業。入りたくて入った会社である。最初は楽しかった。ところが3、4年たつと違和感を感じ始めた。

「時折帰省すると、なんかホッとするようになったんです。あ、私、都会生活に疲れている。そもそも都会暮らしに向いていないんだと」

5年で会社を辞め、桐生に戻って家業を手伝い始めた。だが、戻ってきた次男を見て、父・正さんはいい顔をしなかった。

「日本ではそろそろ縫製業は成りたたなくなっている。お前はまだ若い。なんでこの仕事に入るんだ?」

父の話は聞き流した。長谷川さんには勝算があったのだ。東京で働いた5年でアパレル界にネットワークがある。それを活かせば何とかなる。

正さん会社を閉じる準備を始めた。博さんは営業に回った。思った通り、ネットワークは活きた。取れた仕事は父の会社ではなく、外注先に廻した。「長正」の名前を出すと、どこも喜んで引き受けてくれた。順調な滑り出しである。

「博さん、こんなの縫えないよ」

そのうちクレームが出始めた。そんなことはないだろ? ミシンがあれば何でも縫えるはずだ。

「あんた、縫製を知らないのか? こりゃあ縫えないんだよ」

考えてみれば、自分は縫製という仕事をしたことがない。だから、縫えないという職人さんを説得する言葉を持っていない。

「縫製を覚えよう」

父の工場で働いていたベテランの職人さんに弟子入りした。なるほど、縫製とはこのような仕事かと知ったのは、この時が初めてである。

「確かに、厚物、薄物、布帛、カットソーなどそれぞれに専門のミシンがあって、裁断の仕方によっては縫えないところもあるって初めて知りまして」

それが分からなかったから、アパレルから頼まれれば何でも引き受けていた。これでは外注先に

「これ、縫えない」

といわれても仕方がない。

「当時の私は、ミシンが1台あればどんな縫製でもできる、と思っていた素人に過ぎなかったわけです」

外注先を説得するために始めた縫製が、いつしか面白くなった。やがて父・正さんは会社を閉じた。2009年、長谷川博さんは自分の会社「ナガマサ」を起業して自前の工場を持った。

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