2005年に合併して桐生市に編入した黒保根町(旧勢多郡黒保根村)は赤城山の東斜面に位置する。約89%が森林で、残りのわずかな平坦地で営まれる農業や畜産が主産業の静かな山村である。
その黒保根の一角、江戸時代には足尾銅山から運び出される銅の運搬路だった「あかがね街道」(現国道122号)沿いの水沼で、星野長太郎が洋式の製糸工場建設を始めたのは明治6年(1873年)のことだった。翌年操業を始めた「水沼製糸所」は32台の製糸機械をすべて輸入した。動力源は水力である。日本初の、民間の手で出来た最新鋭の洋式製糸所が産声を上げた。
当時の黒保根では農業や林業だけでは人々の暮らしは成り立ちにくく、蚕を飼って繭を取り絹糸を紡ぐのが重要産業だった。鎖国が解かれた幕末以来、絹糸は重要な輸出物資となったものの、国際的には中国産の絹糸にも劣る評価しか得られなかった。人力で糸を巻き取る伝統的な座繰りで糸を取るため太さや撚りが一定しなかったからだ。近代的製糸法を一気に取り入れた「水沼製糸所」は、日本産絹糸の品質を上げ、国際的評価を高める挑戦だった。
では長太郎は、殖産興業の時流に乗って利潤追求を図ったのか? 郷土史家は「そうではない」と見る。長太郎は水沼で代々名主を務めてきた星野家の長男である。それなのに、歴代当主が名乗り続けてきた七郎右衛門の名を継がず、家業ともいえる名主の職にも就かずに製糸所に打ち込んだからである。しかも建設資金を借り入れに頼り、事業計画では赤字を見込んでの船出だった。彼が目指したのは、何より「国のため」であり、「郷土のため」だったらしい。いまでいう「まちおこし」だと見ればわかりやすい。