それに、電気と水道は欠かせない。いずれは子供も出来るだろう。教育、医療、買い物などが不便なほど山奥では困る。
「あちこち探しましたよ。秩父、赤城山の東斜面、榛名山、歩き回ってここに決めました」
いま久美子さんはそう語る。
実は、もう1つ、土地探しの条件があった。土地を売ってくれるところ、という条件である。
農地の売買には農地法の規制がある。農地が投機の対象になって金次第での売買が繰り返されるようになれば農地が荒れ、日本の食料生産が危機に陥る。それを避けるため、売買するには農業委員会の許可が必要になっている。
2人が土地を買ったのは昭和47年(1972年)のことだ。その頃日本は土地バブルが横行していた。土地を買い占め、転がして巨額の利益を得る悪徳業者が全国にいた。各地の農業委員会は従来にも増して農地の売買に慎重になっていた。
正次さんが農業の後継者だったら、もう少し話はスムーズに進んでいたのかも知れない。しかし実家はすでに農業を離れ、ガソリンスタンドに転業している。ガソリンスタンドの3男坊は、農業の後継者とは認めがたい。都会から来た男が、なんで山の中の土地を欲しがる?
あちこちで壁にぶつかり続けてきた正次さんは、
「ここが最適地だ」
と思い定めた黒保根村の農業委員会で誠意を込めて花作りに賭ける思いを説明した。
「少なくとも5年間は農業を続けます。それが出来なくなった場合は農業委員会の裁定に従います」
という誓約書を書いてやっと110アール(1.1ヘクタール)の土地取得を認めてもらった。ただし、この時は仮登記をしただけである。本登記を認めてもらったのは翌昭和48年。2人が移り住んでからだった。
手に入れた土地は農地とはいえ、松や雑木が生い茂り、原野に近かった。伐採し、整地を進め、何とか使えるまでに1年ほどかかった。家を建てた。ビニールハウスも1棟が完成した。やっと花作りに挑む準備が整ったのは昭和49年4月のことである。
そこまでの準備を整えて2人はゴールインしたのだった。
写真:結婚した頃の正次さん