花を産む さかもと園芸の話 その5 5年

2人の貯金はすぐに底をついた。両方の実家から援助も受けた。それでも3年間は食うや食わずの毎日が続いた。生活費を節約しようと、まだビニールハウスを建てていない土地で野菜を育てた。食費を抑えるためだ。新聞など取るゆとりもない。

「商品にならなかった花を車に積んで両方の実家と親類を回り、食べ物や日用品と物々交換もしてもらっていました。でも、やっぱり親戚ですね。何度か重なると、私たちが困っていると心配してくれたんでしょう。冷凍した肉や魚、それに日用品まで用意して待っていてくれることもありました」

あれほど反対していた親戚も、夜を日に継ぐように夢への歩みを止めない2人の姿に打たれたのかもしれない。

黒保根に移り住んで2年目の昭和49年の暮れ、2人は初めて恵まれた子供を早産で亡くした。産まれてわずか1日の短い命だった。

初産で重いつわりに苦しんだ久美子さんは、つわりがなくなって身体が楽になると厳しい寒さの夜もビニールハウスに入って仕事を続けていた。仕事に追われる正次さんを放ってはおけなかったのだ。それがいけなかったのか。
いくら夢に向かっているとはいえ、せっかく授かった初めての子供まで奪われた。

「それまで涙を見せたことのない正次が号泣しましてね。たった1日でも命があった子なので、清子と名付けてあげました」

だが、2人はたくましい。辛いことがたくさんあったのに、むしろ、暮らしがすっかり安定したいまより当時の方がずっと楽しかったという。

「周りの方々はどう思われるか分かりませんが、あの3年間に味わったあらゆることが、私たち夫婦の土台を創ってくれたんです。ついでに言えば、人の幸せとは、食べていくために力を合わせることにあるのかなあ。あの頃は1つのものを本当に2人で分け合って食べていた。私たち夫婦の一番楽しかった時代ですわ」

5年目。花作りに何となく灯りが見えてきた。少なくとも、日に3度の食事は親戚のお世話にならずに食べられるようになった。設備もとりあえず整い、花に集中できるようになった。

正次さんは休まず、次の一歩を踏み出す。最初に思い描いた計画に従ってアジサイの育種を手がけ始めたのである。品種改良して自分の思い描いた姿形、色のアジサイを生み出す。

「誰からも愛される新しい品種を生み出すんだ」

2人が黒保根に移り住んだのは、それが目的だったのだ。

写真:家族旅行ができるまでにはずいぶん時間がかかった。能登で。

1件のコメント

  1. 久美子さんこんにちは
    突然のメールで本当に失礼します。

    東松山の松女での同学年の新井富子です。(旧姓古茶)
    今、秩父市に住んでおります。今朝、NHKのテレビで紫陽花の花の二ユースを拝見しましたよ。
    間違えてしまうと失礼だと思い、インターネットで拝見しましたら、久美子さんのご実家のお仕事や、出身が東松山だと分かったのでメールしました。
    ご主人様も同級生でしたね。共に苦労をされた後、数々の栄誉を受けられたとの事、実りある素晴らしい人生を歩んで来られたのですね✨

    このコメントが久美子さんの元に届くといいなぁ〜と、思いつつ文字を打ち込んでいます。

    でも、遠い昔の同級生だからお忘れかも知れないですが、陰ながら久美子さんの事、とても喜んで居る一人です?
    ご主人のご病気も良くなられたとの事、引き続きお大切になさって下さい。

    懐かしい懐かしい久美子さんへ?

    (お花の注文のメールで無くてごめんなさい。)

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