店開きから1ヶ月ほどたった2014年の年末のことだ。何度か来店していた客が2人の若者を伴ってきた。仙台生まれのシェフと女川出身の写真家である。2人は被災地を何とか復興したいと考えた末、石巻でイタリアン・レストランを開くことにした。店内に置くテーブルや椅子などを高崎のメーカーに作ってもらおうと高崎市を訪れ、たまたま一緒になったこの客に誘われて桐生まで足を伸ばしたのだという。
休店日だったが、たまたま店にいた雅子さんが応対した。被災地から来たとなれば、話はどうしても地震と津波による被害に向かう。日本国民なら誰でも、あの震災被害の悲惨さは、改めて聞くまでもなく記憶に刻みつけている。もちろん雅子さんも当時はテレビの画面を食い入るように見て心を痛めた1人である。十二分に知っているつもりだった。
ところが、話を聞くうちに涙が止まらなくなった。知っていると思っていた被災地の姿は、実は本当の悲惨さのホンの一部だったことを思い知らされたからである。
一面に折り重なる死体の山。100人単位で死んでしまった友人、知人。漁村である女川で津波に襲われた両親と連絡が取れず、心配で気が狂いそうになり、眠られぬ夜が続いたこと……。
考えてみれば、テレビは死体の山を写し出したりしない。100人単位で知人、友人を失った心の痛みを映像化する術はない。行方の知れない両親を思って心配し、焦り、絶望とはかない希望の間を揺れ動く心の軌跡を描き出すのは、短いショット、インタビューを繰り返すテレビにはなかなか出来ない。それに、テレビ画面を介してしまうと、すべてが自分とは違ったほかの世界の出来事になってしまう。
「私、すっかり知っている気になっていたけど、実は何にも知らなかったんだ、ってショックを受けたんです」
淡々と事実を語る2人の話は、受け止めきれないほど重かった。その重みが目から涙となってこぼれ落ちた。
写真:「PLUS+ アンカー」で庭の手入れをするのは角田さんの日課である。