人の出入りが多かった。庭の手入れをする造園業者が始終出入りした。客をもてなすのが好きだった父は年中応接間で宴会を催した。東京から謡曲の師匠を招いて稽古仲間と一緒に学ぶのもこの応接間だった。角田さんの友人たちのたまり場もこの家だった。91歳で身罷った父を送り出したのもこの家からである。母は76歳で、この家で息を引き取った。
人生の想い出のほとんどはこの家とともにある。だからこその愛着なのだ。この家で人生を終えたいとも思っていた。
「しかし、この家に住み続けられるか?」
繊維関連の仕事は昭和52年(1977年)に廃業した。繊維不況のあおりである。それからは、この広い家は普通の住宅になった。2人の娘のうち、次女は結婚して家を出た。長女との3人暮らしである。それでも広い。
「3人でも広すぎるのに、俺たち夫婦がいなくなったら、娘がこの広い家に独りで住むのか?」
では、売って適当な広さの家を買うか。しかし、この家は想い出の固まりだ。俺の人生がギュッと詰まっている。手放したくない。しかし、手放さないと娘は……。
迷いに迷っていたとき、3.11の東日本大震災が来た。震源地からは遠い桐生でも大地が激しく揺れた。間もなく、角田さんの敷地を借りていた会社が賃貸契約の解除を申し出た。地震で建物が傷み、営業が続けられないからだ。その会社は建物を解体した。角田家は大きな収入源を失った。
「この家は娘が一人で住むには広すぎる。第一、賃貸収入が見込めないのに、この土地と家を娘に任せるのは無理だ」
角田さんは意を決してアンカーのドアを叩いた。
「私の土地と家を何とかしたいのだが、力を貸してもらえないか」
桐生は小さな町である。貴志さんと角田さんは、本町6丁目のまちおこしを目指す「かんのんまちづくりの会」で10年以上もともに活動してきた。そのころから、角田住宅をどうしたらいいかは話題の一つだった。それが具体的に動き始めた。角田さんの屋敷をどうしたらいいのか?
写真:「PLUS+ アンカー」の外観は角田家住宅そのままである。