だがこの年、佐藤さんは清水時計店を辞める。宝石部部長に昇進していた佐藤さんは、この年入った税務調査につきっきりになった。それだけ宝石部門の売り上げが多く、その責任者が佐藤さんだったからだ。ところが、おかげで営業に出る時間が大幅に減ったため、それまで右肩上がりを続けていた売り上げが落ちた。
「それを社長が怒っちゃってね。『税務調査で営業に出る時間が取れなかったからだ』と説明しても、『それは言い訳だ』という。最期に、『俺のいうことを聞けないヤツは辞めろ!』って社長が言うもんだから、私は『そうか』って手を挙げちゃった。いうことを聞くも何も、向こうのいってることが無茶だからね。手を挙げて周りを見ると、誰も手を挙げていない。そんなわけで私だけ辞めちゃったんです」
理屈の通らない喧嘩はきっちり買ってやる。それが子分を取り仕切るガキ大将の心意気である。かつてのガキ大将、佐藤さんの中には、ガキ大将の健康な精神が生き続けていた。
仕事を辞めた佐藤さんは、それからしばらくプラモデル作りに熱中する。スーパーカーやトラックを組み立てては桐生厚生病院の小児病棟を訪れ、入院中の子供たちにプレゼントして励ました。
それにも飽きた半年後、佐藤さんは一匹狼の宝石商として仕事を再開した。そして、あれほど熱中したからくり人形作りを忘れた。長男が成長し、やがて佐藤さんはボーイスカウト活動にのめり込む。その熱は、長男がボーイスカウトを卒業しても冷めなかった。佐藤さんとからくり人形の間には、長い空白期間が生まれた。
第1回で少し触れたが、桐生にはからくり人形芝居が生き残っている。江戸初期、大阪に始まった竹田出雲の流れを汲むと言われ、残された記録では、明治27年(1894年)、桐生天満宮のご開帳で竹田縫之助作のからくり人形芝居が公演されたのが最も古い。竹田からくりは江戸でも人気を博していたが、文明開化の東京では廃れ、桐生が江戸の文化を引き継ぐことになった。
桐生のからくり人形を上演したのは天満宮だけではない。天満宮の鳥居前から始まる桐生の目抜き通り、本町商店街を構成する6つの町会に加え、本町通からかつての陣屋につながる横山町がからくり人形芝居で覇を競った。水車を動力源にした大がかりなからくりも出て町衆を楽しませた。
昭和36年まで6回の上演記録がある。これを見ると、演目をほぼ毎回変えるのが桐生流だ。
例えば昭和27年は
「巌流島(宮本武蔵)」
「義士の討ち入り(廷内の場)」
「五条橋(牛若丸)」
「助六揚屋の段」
「曽我の夜討」
「源氏物語(藤壺)」
「野崎村(お染久松)」
「鞍馬山(牛若丸)」
などで、昭和36年は
「羽衣」
「歌麿」
「大坂夏の陣(坂崎出羽守)」
「ディズニーランド」
「曽我の夜討」
「八百屋お七」
「一本刀土俵入り」
といった具合だ。
この中の「曽我の夜討」はその前の昭和3年にも上演されており、同じ人形、演目が3回も続いたのは長い歴史の中でこれだけ。よほど人気があったらしい。