だが、昭和36年のご開帳が済んでしばらくすると、日本の繊維産業は衰退期に入る。
「糸で縄を買った」
と言われた日米繊維交渉(1970年)が引き金を引いたと言われる。繊維の町・桐生はもろに影響を受けた。町から活気が失われ、天満宮のご開帳でからくり人形芝居を演じる経済力が各町内になくなった。最後となった昭和36年に使われたからくり人形は各町会の蔵などに仕舞い込まれたまま、やがて存在することすら町衆の記憶から消えた。
桐生市本町4丁目の町会の蔵から古いからくり人形が見つかったのは1997年のことである。調べてみると、昭和3年(1928年)に製作されて上演され、その後昭和27年(1952年)、昭和36年(1961年)に再演されたまま蔵に仕舞い込まれていた「曽我の夜討」に使われた8体だった。
町衆の社交の場として大正8年(1919年)に作られた桐生倶楽部に8体は持ち込まれ、しばらく展示された。話題はメデイアに乗って広がり、東京からも人形劇の専門家らが視察に来るほどだった。だがそれ以上の盛り上がりは見られず、やがてすぐ近くにあった市郷土資料展示ホールの倉庫に仕舞い込まれた。
8体が見つかったことに人並み以上の関心を持った市民の一人が佐藤さんだった。桐生倶楽部に展示されていたときは、遠くから
「へーっ。これが桐生のからくり人形か」
と見物しただけだが、郷土資料館の倉庫に放っておかれていると聞くと、すっかり忘れていたはずのからくり人形への関心がムクムクと起き上がったのである。
郷土資料展示ホールまで出かけ、倉庫から勝手に引き出して8体の人形を点検した。これはからくり人形である。からくり人形である以上、操れなければならないはずだが、取り出した人形は動かなかった。
「ありゃあ、これ、動かないわ」
そう思ったところから佐藤さんの探求心が動き出す。動くように作ってあるのに、なぜ動かないのか。
かなり傷んでいる衣装を脱がせ、人形の本体を調べた。操る糸が切れている。ゴムが伸び切っている。見たところ、ネジもすっかり錆びている。だが、膝や腕、首など可動部を手で動かすと動く。
「これ、修理出来るかも知れない」
そう思うと、もう佐藤さんは止まらない。清水時計店で毎年からくり人形を作っていた時代にワープしてしまったようなものだ。傷みが少ないように見えた2体を勝手に自宅に持ち帰ったのである。
当時佐藤さんは、宝石商と看板屋の二足のわらじを履いていた。仕事は結構忙しかった。それでもその日から、妻の美恵子さんを巻き込んでの修復作業が始まった。